37. 足利直冬
石見で南北朝の軍勢が合戦を繰り返している中、ある人物によって、戦乱は益々激しくなっていく。
その人物とは足利直冬である。
足利直冬は南北朝時代の武将で足利尊氏の長男で母は越前局である。
足利直冬は母の出自の低さから尊氏に冷遇され、子供のころは鎌倉東勝寺の喝食となっている。
建武3年/延元元年(1336年)に、尊氏が室町幕府を開幕した後に上洛して認知を求めたが、冷遇され、叔父足利直義の養子となって直冬と称した。
その後、貞和4年/正平3年(1348年)初戦の紀州討伐で武功を上げ頭角を顕すが、尊氏は依然として家臣扱いをしたようである。
37.1.直冬の西下
37.1.1.直冬中国探題に任命される
貞和5年/正平4年(1349年)足利直冬は中国探題に任命され、西下する。
西国の探題になって、西国へ下向する時のことを「太平記」は次のように記述している。
先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。
抑此直冬と申は、古へ将軍の忍て一夜通ひ給たりし越前の局と申女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男に成て京へ上せ奉し人也。
此由内々申入るゝ人有しか共、将軍曾許容し給はざりしかば、独清軒玄慧法印が許に所学して、幽なる体にてぞ住佗給ひける。
器用事がら、さる体に見へ給ければ、玄慧法印事の次を得て左兵衛督に角と語り申たりけるに、「さらば、其人是へ具足して御渡候へ。事の様能々試て、げにもと思処あらば、将軍へも可申達。」と、始て直冬を左兵衛督の方へぞ被招引ける。
是にて一二年過けるまでもなを将軍許容の儀無りけるを、紀伊国の宮方共蜂起の事及難義ける時、将軍始て父子の号を被許、右兵衛佐に補任して、此直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。
紀州暫静謐の体にて、直冬被帰参しより後、早、人々是を重じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給しか共、猶座席なんどは仁木・細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未無りき。
而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。
備後の鞆に座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非をかざりて、上を犯しつる師直・師泰が悪行、弥隠れも無りけり。
まず西国を平定するためにと将軍の嫡男宮内大輔直冬を備前国へ下された。
そもそもこの直冬という者は、昔将軍がお忍びで一夜通った越前局という女性の腹に出来た人だった。
そのため、子供の頃は武蔵国東勝寺の小僧として預けられ、元服後に京に上ってきた人である。
直冬が京に来ていることを内々に(尊氏に)伝える人もいたが、将軍は認めようとしなかったので、直冬は独清軒玄慧法印のもとで学問をしてひっそりとわびしく暮らしていた。
直冬は才能もあり、要領も良いと思えたので、玄慧法印が機会を見つけて左兵衛督(足利直義)にそのことを告げた。
直義は「それならばその人をここへ連れておいで下さい。様子をよくよく見て、なるほどと思うところがあったら、将軍へもお話ししよう」と、左兵衛督(直義)は直冬を引き取った。
このまま一、二年過ぎるまでも、なお将軍の許しをえる機会がなかった。
紀伊国の宮方達が挙兵して、事態が難しくなった時、将軍はやっと父子の名乗りを許されて、右兵衛佐に任じて、直冬を討手の大将として遣わした。
紀州が静定され、直冬が帰参した。
直冬はその後、時々将軍に出仕したが、なお、席は仁木、細川と同列で、それほど大切には扱われなかった。
ところが、左兵衛督(直義)の計らいで、西国の探題に任命されると、早速配下に入って、付き従う者が多くいた。(直冬には、足利の血と人柄で、人を引きつける魅力があったように思える)
備後の鞆に着き、中国地方における裁きを行った。
その内容は、忠心のある者は望まなくても恩賞を与え、罪のある者は罰することをせずその地を離れさせるにとどめるものだった。
これによって、長年悪事を行って主君(尊氏)をおとしめていた師直、師泰の悪行は、ますます明らかになったのだった。
貞和5/正平4(1349)年4月、足利直冬は長門探題として備後鞆津(広島県福山市)の大可島城に入った。
足利直義の失脚
しかしこの直後の8月に、直冬の後ろ盾であった足利直義が失脚する。
足利直義は足利家の執事である高師直と、1年前(貞和4年/正平3年(1348年))頃から対立するようになっていった。
その高師直が弟の師泰と足利直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲したのである。
高兄弟は尊氏に直義の罷免を求め、さらに直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。
直義は、鎌倉から上洛してきた尊氏の嫡男である足利義詮に三条坊門殿の邸宅を譲って出家し、恵源と号した。
直冬は直義を支援するために上洛しようとしたが、播磨の赤松則村(円心)に阻止された、という。
直冬は備後国の鞆津に留まり、周辺の武士に恩賞を与えて人心の掌握を図り、勢力の定着を図った。
しかし備後は長門探題の管轄であるが本拠地は長門であり、この地に留まる事は明らかな命令違反である。
直冬はさらに中国地方において軍勢を結集しようとするなどの態度を取ったため、尊氏は直冬討伐令を下した。
37.1.2.直冬、九州の反幕府勢力を結集する
9月13日に直冬は鞆津で師直の命令を受けた杉原又三郎ら200余騎に襲撃され、磯部左近将監や河尻幸俊らの助けを受けて海上から九州肥後へ逃れた。
直冬はこのような状況の中で、父である尊氏や、その取り巻きに対する憎しみを覚えるようになる。
また同時に、自分の境遇を憐れみ、父との面会を仲裁、名を与えてくれて、活躍の場まで考えてくれる義父への愛情を強くしていった。
直冬は九州の地で足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵するなどして足場を築いた。
直冬の九州落ちを知った幕府は直冬に出家と上洛を命じるが、直冬がこれに従わないと見るや再び討伐令を下した。
当時、九州には征西将軍宮・懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏、大宰府の少弐頼尚らの勢力が鼎立していた。
直冬は、尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府と協調路線を取り大宰府攻略を目指した。
37.2.直冬の暗躍
37.2.1.直冬、石見の南朝勢力を喚起する
直冬は、後村上天皇即位の年に九州へ渡っていた、征西の宮(征西将軍)懐良親王(阿蘇ノ宮・肥後ノ 宮)に近づき、側近の元石見国司であった日野中納言邦光と通じるようになる。
直冬は、南朝に恭順を誓い、この日野邦光を通して石見の南朝方と連絡をとり、一挙に京都奪回に攻め上る策を考えた。
直冬は日野中納言邦光を介し、石見の南党方へ使節を派遣して義兵を募った。
翌年の観応元年/正平5年(1350年)3月11日、石見南党方の三隅兼連、都野信保、佐和顕連、福屋兼氏の一族らが、直ちにこれに応じた。
一方、直冬は九州勢力を結集するに当たり、3月23日に吉見四郎頼甫を遣わして、北朝方の九州探題一色範氏を討たしめんため、相良孫次郎を招いた。
その下知状によれば、
為誅伐一色少輔太夫入道道猷以下野心輩等、所差遣吉見四郎頼甫歟。急速馳向、可致忠節之状如件
直冬(判)
相良孫次郎殿
とある。
吉見四郎頼甫(頼重)は、石見国津和野領主吉見頼行の四男である。
頼甫は直冬が備後へ下向すると共に中国経略に応じ、逸早く石見の内田致景らと行動を起こし、直冬が九州へれたときより、探題一色範氏の討伐に奔走していた。
これら直冬の九州軍と石見南朝軍は、呼応して行動を共にし義兵を起こした。
このことを石見守護ノ上野前司頼兼は、直ちに京都の足利尊氏へ急報した。
尊氏は驚愕した。
「親に叛くとは」と絶句する。
そして、直冬が尊氏を直冬を地位につけ、西下させたことを悔やんだ。
37.2.2.尊氏石見討伐隊を送る
尊氏は、事態を容易ならずとして、これを鎮圧するため、観応元年/正平5年(1350年)6月21日、高師泰を石見に発向させるとともに、糧食補給のため各地に指令を発した。
此度三角入道誅罰のため石見国に差下候諸軍勢のため、兵根米二千俵・大豆五百俵(簸川郡) より太田新九郎奉行して、差送るべきの旨、吉田肥前守 (厳覚)へ申しつけ候間、着航次第陣屋々々へ配当致すべく候。
又別紙諸軍勢の乱妨・放火・狼籍など 停止書の趣、根来に諸大将へ対談せしめ、きっと承知致すべきよう、厳しく申し聞かすべき旨に候。 (略)
また、尊氏は安芸の北朝党を動員して側面的に師泰を援護させるなどの手を打った。
安芸守護の武田氏信が軍を率いて石見に向かった。
<続く>