43.都治家騒動
43.4.都治家騒動物語
43.4.4.幕府の土屋宗信征伐
土屋宗信は、守護の山名氏利に贈呈品を贈り取り入ろうとした。
手元には、都治弘行から奪った銀が大量にあるので、物資には困らなかった。
しかしそれより先に、土屋宗信の勢力の拡大を畏れた周辺の国人衆、益田・三隅・小笠原氏などが「土屋が都治家の領地を奪い取った」と山名に訴えた。
そして山名氏利に資金の提供を申し入れたのだった。
これにより、守護として国人衆の訴えを認め了承し、幕府に報告した。
【国人衆】
南北朝・室町期の地方豪族。国人、国衆(くにしゅう)ともいう。
本来国衙領の有力名主をさす用語であるが、南北朝期以降、守護代・郡代などの守護内衆に対して、在地はえ抜きの土豪をさす語としてもっぱら用いられた。
南北朝・室町期の地頭・荘官・有力名主たちは、各地に小規模な領主制を展開するようになった。
石見では、益田・周布・三隅・福屋・小笠原・佐波などがこれに当たる。
彼らは、自己の勢力を拡大するため守護大名の被官(家来)となったが、あくまでも自己の領主制は保っていた。
報告を受けた幕府は宗信の不法を責め、度々召文(呼び出し状)をだしたが、宗信は従わなかった。
そこで、幕府は山名氏明(山名氏利の弟)をして宗信を討伐させることとなった。
氏明は但馬・因 幡伯耆出雲の軍勢を率いて安濃郡の大田に到着、石見の諸族を召集した。
吉見・益田・三隅・周布・福屋・小笠原・佐波・河上その他小国衆までが集って来た。
土屋討伐を命じられた山名氏利は、弟の山名氏明を総指揮官にして、土屋討伐に向かった。
氏明は全軍を指揮して江尾弾正忠 のいる今井城に向った。
弾正忠は戦わずして兄宗信の拠る鏑腰城 へ退却した。
氏明の軍勢は鏑腰城に迫る。
氏明の先陣橋本左衛門佐は鏑腰城の峻険な要害の様を見て、 石見国衆と協議の結果遠攻にすることとし、市山の江尾の小城、日和の金比羅山城などに向って砦を構えた。
そして山名氏明は波積に本陣を置いた。
守護の山名氏利を籠絡できなかった土屋宗信は戦況不利を悟り、あっけなく降伏した。
43.4.5.土屋宗信の誤算
宗信は見通しを誤っていた。
父、桜井宗直が井尻を横領したが、幕府はこれを見逃した。
それは、桜井宗直は守護や幕府の要人に付け届けを欠かさなかったからである。
宗直は宗信に、これが騒乱の時代を生き抜く方法の一つだと言っていた。
宗信もそのことは、十分理解していたが、手抜かりがあった。
それは、周りの国衆が、土屋を危険視していることを理解していなかったことである。
よもや、かつて敵対していた、南朝方の三隅、周布、福屋、佐波らが、幕府方の小笠原や益田と組んで攻めてくるとは思っていなかった。
ただ、応永12年(1405年)に吉見、益田、三隅、周布、福屋諸氏の和平についての協定が成立し、石西(石見西部)諸族の和平機運が到来していた。
しかし、南北朝時代、宮方・武家方に分かれて抗争していた頃の感情のもつれも十分解消していなかった。
そのため、一致団結して土屋を攻めてくるとは思わなかったのである。
だが、桜井宗直の横領の件もあり、土屋氏は危険視されたのである。
つまり次は自分がやられるのではないかと。
しかし、土屋宗信の最大の過失は、山名氏利や幕府への対応の遅れである。
やはり、都治弘行を討つ前に、それを行うべきだったのである。
・・・・
土屋宗信は、討伐軍をみて驚いた。
これでは、石見の国を挙げて儂の討伐にやって来ているようなものだ。
儂は、討伐隊が来るにしても、その数はたかが知れている、と考えていた。
この、鏑腰城がそう簡単に攻め落とされることはない。
籠城して、守護や幕府と和平交渉し、有耶無耶にする計画だった。
だから、幕府からの召文に応じなかったのだ。
だが、どうやら儂が間違っていたようだ。
とすれば、籠城して先の見通しのないまま無闇に戦うのは愚かだ。
ここは、降参するか。
儂にはその資格がまだ無かった、と宗信は思った。
領民達を幸せに出来るのは儂だけだと信じて疑わなかった。そのためあくどいと思われることをやるのも意にしなかった。
大きな目的のためには少々の悪事もやむ得ないことと信じていた。
この方法で今まで順調にやって来た、と思っていた。
だが、何か事を起こすには、意思と力以外に、なんといううか人気というか、腕力以外の力で人を巻き込む力が必要のようだ。
しかし、儂にはそのような能力はない、ことは良く分かっている。
儂には、もっと別の道を生きる方が良いようだ。
見切りが大切だ。
だから儂は、あえて必死の抵抗はしない。
これからの世の中、資金さえあればまた立ち上がることができる。
領地は没収されたが、足利直冬公の残した銀は、上手く隠しておいたので見つからずに儂の手元にある。
この資金で儂はまた立ち上がる。
桜井ノ津の持つ重要な価値に気づいている領主はまだいない。
そして、幸いにもこの桜井ノ津は自由に使用できる状況だ。
儂はこの桜江津を使って交易をする。
資金は十分ある。支那、朝鮮、いやシャムまで手を伸ばしても良い。
だから今は、恭順の意を示しておくのだ。
・・・・
戦後処理
この戦により土屋領は没収され、それぞれ守護と国人衆で次のように分割処理することになった。
川戸・有福・波積 山名氏明預かり
市山・日貫 福屋氏兼が所領
日和・川越地内大貫 小笠原長教(ながのり)が所領
谷住郷・松川地内上津井 周布兼宗が所領
上都治・下都治 烏丸豊光(室町時代の公卿、正二位権中納言)が所領
土屋宗信の居城鏑腰城は、川本の小笠原長教の支配下となったが、宗信は川戸の鳴石城に居住し、山名氏明の監視下ではあるが自由に振る舞うことが許された。
これは、宗信が大きな戦闘をすることなく降伏したことと、宗信の駆け引きの成果であった。
程なく宗信は念願の海外交易を開始する。
<続く>