43.都治家騒動
43.4.都治家騒動物語
以下は都治家の騒動を、若干の空想を交えて描いたものである。
都治氏と足利直冬
都治氏は正平6年(1351年)尊氏によって都治の地頭に補任された。
しかし、その後足利直冬によって石見が平定されると、都治氏は南朝方となった。
直冬は上洛し、一時京を占拠するが、足利尊氏、足利義詮らの攻撃を受け敗退し都落ちする。
直冬は石見に戻り、那賀郡松山に高畑城を築き邑智・邇摩の足利方の攻撃の拠点とした。
しかし、永和2年/天授2年(1376年)直冬は江津合戦に破れ幕府に降伏する。
直冬は幕府から那賀郡都治(江津市都治)に所領を与えられ、高畑山の慈恩寺に入って剃髪し、 玉溪道昭と称し信仰の生活に入った。
幕府は都治氏の領地を安堵し、直冬の監視を命じた。
応永3年(1396年)都治(佐々木)行連が死去し、都治政行が後を継いだ。
応永7年(1400年)3月7日、都治高畑城中において死去した。
法名は生前の慈恩寺玉溪道昭と諡し、高畑城 の東北に面する堂床という山腹に葬られた。
43.4.1.都治家騒動の芽生え
応永3年(1396年)都治(佐々木)行連が死去し、都治政行が後を継いだ。
この都治政行の娘と土屋宗信が婚約した。
土屋宗信は、前述した、周布領の通摩郡井尻村を横領した桜井宗直の子である。
この桜井宗直による井尻村の横領は、都治政行もその一端を担っていた。
都治政行は桜井宗直が井尻村を攻め込む際、その後援を引き受け桜井軍勢の井尻侵攻を支えたのである。
当然、その見返りを、桜井から得ていた。
この関係を更に強くするために、両家の間で婚約がなされたのである。
土屋宗信の野望
土屋宗信は大きな野望を持っていた。
土屋宗信は川戸から河口までの江の川の下流域を全て手に入れることを狙っていた。
そのために、守護の山名氏利を取り込もうとしていた。
土屋宗信は、考えていた。
山名氏利は聡明とは言えない人物だ。しかし自尊心だけは必要以上にあり、しかも欲深だ。
こういう人間に取り入ることは造作もないことだ。
取り入った後は、山名氏利を儂が思うように扱える。
最後は山名にとって代われることも夢ではない。
儂には夢がある、海を渡って交易する。
海の先の支那には明という国がある。
とても大きな国で目も眩むほど繁栄していると聞いた。
物資も豊かで、文明も相当らしい。
この国と交易しこの石見いやこの日本を繁栄させたい。
海を渡った半島では高麗が滅びて朝鮮という国が出来たらしい。
この朝鮮の技術もたいしたものだという。
これらを導入すれば必ずやこの国はもっともっと豊かになれるはずだ。
洪水や干ばつなどを克服する技術を持っているかもしれない。
これらの技術を導入すれば領民はいつの日か苦しみから解放される日が来るに違いない。
俺は誰もしなかったことをやりたいのだ。
苦しみながら耐えるだけしかないこの世界を変えたいのだ。
今の制度では、領民は救われない。
新しい技術と制度でしか領民を救うことはできない。
これが出来るのは儂だけだ。
土屋宗信は、予てより日本海まで続く、開けている土地を狙っており、都治家と縁を結んだのを契機に、残りの都治家の土地も自分のものにしようと考えたのである。
そして、海外交易の一大拠点をつくり、富国強兵を成し遂げ石見の覇者になろうと夢見ていたのである。
嫁の手土産
結婚に当たり土屋宗信は義父である伊賀里松城主の都治政行に、娘と一緒に鏑腰城に住み余生を楽しむことを勧めた。
都治政行は最初は断っていたが、娘と離れ離れに住むことに寂しさを感じたのか、遂に土屋宗信の申し出を受け入れることにした。
都治政行と嫡男の弘行との関係は悪く、弘行は父親の政行より、親戚の河上氏に親しみを抱いており、何事も相談していた。
こういうことから、政行は娘と一緒に住むことを決心したと思われる。
都治政行は鏑腰城に住むにあたり、自分の領地の一部を娘に譲り、それを手土産として土屋宗信に嫁がせることとした。
応永19年(1412年)都治政行は、嫡男の弘行に、上都治の二百貫と羽積の二百貫を譲り、娘に都治下村の二百貫を分与して、土屋宗信に嫁がせた。
【貫高制】
鎌倉時代・室町時代には、田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表された。これを貫高といい、それを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼ぶ。
貫高を石高に換算すると全国的に1貫文=2石であったが、一部の地域では差異があった。
土屋宗信はこの手土産を有難く受け取ったが、この手土産だけでは満足しなかった。
都治政行の全ての所領を自分のものにしようと考えた。
つまり、都治弘行の領地をも奪おうとしたのである。
43.4.2.土屋宗信の陰謀
都治政行が鏑腰城に移ってしまったことや、跡継ぎの都治弘行の素行がよくないことから、都治領地内では都治家に対する評判は悪かった。
そこで、都治弘行を殺して領地を奪っても大きな反乱は起きないと判断した。
しかし都治弘行を殺した後、都治領地内で起きる反乱を出来るだけ抑えるために、予め都治領地内の民心をつかんでおく必要があると考えた。
そこで土屋宗信の弟である江尾宗行を都治領地内の今井城に住まわせて民心の把握を行うことにした。
江尾宗行は江尾城主だったが、都治政行が土屋宗信の鏑腰城で過ごしているため、都治弘行が安心するように自ら人質になると申し入れて今井城に住むことにしたのだった。
江尾宗行は兄に似て頭の切れる男で戦略好きだった。
1年も経たないうちに江尾宗行は都治家の家臣や領内の地侍などと気の置けない仲になっていった。
しかし、都治家の家臣の内4人は江尾宗行に対して心を開かず、疑いの心を持ち続けていた。
江尾宗行は兄の土屋宗信に次のように報告した。
都治家中の団結は強くない。
都治家の家臣や領内の地侍の大半は見返りがあればこちら側に就く。
しかし、家臣の中の4人ほどは如何しても都治家を裏切らない。
またこの4人を放っておくと、色々面倒なことになる。
計画を上手く運ぶためには、どうしてもこの4人を排除する必要がある。
それと、もう一つ興味深い噂を聞いた。
都治弘行は莫大な銀砂、銀粉、銀粒を持っているという噂である。
なんでも、これは足利直冬の遺品であるそうだ。
直冬はかつて(文和2年/正平8年(1353年)ごろ)石見の仙ノ山に露出していた銀を取り尽くした、といわれている。
恐らく遺品とされる、この銀はこの銀の一部であるとおもわれ、この噂の信憑性はかなりたかい。
江尾宗行の報告を聞いた土屋宗信はニンマリした。
上手くいきそうである。
それに、足利直冬公の財まで手に入りそうである。
これは、守護の山名氏利への贈呈物にぴったりであるし、銀は海外交易の重要な商品にもなる。
儂の時代ももう目の前だ。
土屋宗信は邪魔な8人の家臣を亡き者にすることが先決と考えた。
この家臣をおびき出して拉致し殺してしまおうと考えた。
土屋宗信は家来の執事河合越前とこの計画を立てた。
狩猟の行事を催し、これに乗じて都治弘行の家臣を暗殺しようと計画した。
そこで、土屋宗信は
「十合(住郷)の地において泊り狩り(狩猟のため山野に泊まること)にて狩猟の行事を催したいので、定めの日にご参集賜りたい」
と近隣の交際先に案内を出した。
この狩猟の催しには都治弘行の8人衆が参加した。
狩猟の目的は、狩猟と見せかけて、この8人の家臣を殺害するためである。
都治家の家臣らは岩木(場所は不明:谷住郷の小谷川沿いであると思われる)に野宿した。
土屋宗信は、予め兵を谷住郷の中の谷に集めておいた。
この兵を、河合越前守に指揮させて、8人衆全員を暗殺した。
これに対して、家臣が暗殺された都治弘行がどのような行動に出たのか、という記録は一切見当たらない。
恐らく、重臣を殺されたため、直ぐに仕返しということができず、期を伺っていたのではないかと思われる。
しかし、都治弘行が行動を起こす前に土屋宗信がさらなる行動を起こす。
43.4.3.都治弘行の殺害
都治弘行が手足と頼む家臣を殺害した土宗信は、いよいよ都治弘行を殺害することにした。
都治弘行は年が改まると松山城へ年賀にいくことが恒例であった。
土屋宗信は、この年賀の道中を狙うことにした。
都治弘行は、土屋宗信に対する警戒心が希薄であった。また誰も注意するものもいなかった。
重臣を失うとはこういう事が起きるのである。
翌応永21年の1月8日に都治弘行は数人のお供を連れて松山城に年賀に出かけた。
【松山城】
築城年代は鎌倉時代末期に川上房隆によって築かれたと言われている。
川上氏(かわのぼり)は弘安の役の後、宇都宮宗綱(中原宗綱)の次男中原宗秀の後裔中原房隆が近江国より地頭として下向し、川上氏を名乗ったことに始まるという。
南北朝時代に川上氏は南朝方となり、度々北朝方の攻撃を受け、観応元年・正平5年(1350年)高師泰の攻撃によって落城、川上五郎左衛門は同族の都野氏を頼って落ちた。
翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称し、弟佐々木行連が今井城・佐賀里松城に入り都治氏を称した。
このため松山城は別名で川上城、河上城とも呼ばれている。
<松山城跡地(山頂)>
都治弘行が年賀に連れて行くお供の数はいつも数人だった。今年も人数は変わらなかった。
河合越前は家臣に都治弘行の動向を探らせていた。
見張っていた家臣は早速都治弘行が、年賀に出かけたことを、鏑越城に伝えた。
河合越前は兵を揃え、都治弘行の帰り道を襲うことにし、今井城周辺の立目の谷に兵を忍ばせた。
年賀を終えて帰途についた都治弘行は酒の酔いもまだ覚めきっていなかった。
ほろ酔い加減で馬足を速めていた。
河合越前は都治弘行一行が二俣土居の川を渡るときに、これを襲わせた。
弘行は矢に倒れ、一行も全滅した。弘行享年33であった。
しかし、弘行を乗せていた馬は矢を受けた状態で森の城に駆け込んだ。
森の城は大騒ぎとなった。
森の小城:諸資料には弘行の馬は「森の小城」に駆け込んだ、とされている。
しかし、現在「森の小城」は谷住郷下ノ原の北方の山頂にあったとされており、この場所は都治弘行の居住地である都治とは、かけ離れている。
そこで、この物語では、都治弘行の居住城である「森の城」に駆け込んだとした。
<森の城 跡地>
土屋の軍勢も後を追った。
驚いた森の城の家臣は一大事とうろたえ騒いだ。
森の城内に、森源高入道という男がいた。
うろたえる家中を取りしずめ応戦の準備をさせた。
森源高入道は勇将として知られていた武将で押し寄せてくる土屋勢によく応戦したが、遂には腹をかっさばいて大往生を遂げた。
<続く>