43.都治家騒動
43.4.都治家騒動物語
43.4.6.土屋氏のその後
宗信は念願の海外交易を開始した。
43.4.6.1.東アジアの情勢
貞治6年/正平22年(1367年)12月7日第2代将軍足利義詮が死去し、足利義満がわずか10歳で足利家の家督を継いだ。
<中国大陸>
このころ、中国大陸では農民の反乱である「黄巾の乱」が起こっており、ついに1368年(貞治7年/正平23年)朱元璋(後の洪武帝)が元王朝を滅ぼし、現在の南京を首都とする明を建国した。
1402年、洪武帝の四男、燕王朱棣が反乱を起こし、皇帝に即位し永楽帝となる(靖難の役)。
後に、永楽帝は首都を北京(順天府)へ遷し、旧都の名前を「南京」と改めた。
<朝鮮半島>
一方朝鮮半島では、
日本で南北朝が統一された明徳3年/元中9年(1392年)に、高麗の武将李成桂が高麗を廃して、朝鮮王朝を建国している。
李成桂は前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で儒教が国教化された。
李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。
朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであった。
<琉球>
14世紀後半、沖縄本島では山北・中山・山南の3国に分かれており、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。
1419年、中山が北山を滅ぼし、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一し、琉球王国となる。
日明貿易
以下「Wikipedi」要約
公式な日明貿易は、応永8年(1401年)第3代室町将軍の足利義満が始めたのが最初である。
応永11年(1404年)以降は、勘合を所持した者に限られるようになり、永享4年(1432年)に宣徳条約で回数などが規定される。
勘合とは、公文書となる勘合底簿の上に料紙をずらして重ね、両紙にまたがるように割印もしくは墨書したもので、「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。
「日字勘合」は明→日本の使行に、「本字勘合」は日本→明の使行に使われ、持参した料紙とそれぞれが持つ底簿を照合したと推測されている。
当時の明王朝は、強烈な中華思想から朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めていない。
そのため勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。
このように、対明貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。
日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸250文が日本で5貫文(=5000文)で売れ、反対に日本にて銅10貫文を1駄にして持ち込んだものが明にて40-50貫文で売れたと記している。
日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て実利を取ったといえる。
しかしこの点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後、4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは応永18年(1411年)貿易を一時停止する。
しかし6代将軍足利義教時代の永享4年(1432年)に復活することになる。
公式の貿易が行われた他、博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によって必要な商品が北京にて買い上げられる公貿易や明政府の許可を得た商人・牙行との間で私貿易が行われていた。
遣明船に同乗を許された商人は帰国後に持ち帰った輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を抽分銭として納付した。
日朝貿易
1392年に李成桂が高麗を滅ぼして朝鮮王国を建国すると、日本は貿易することになる。
朝鮮は倭寇の禁圧を日本に求めるかわりに、日明貿易と違って、多様な階層の朝鮮貿易を許可した。
そのため足利将軍・守護大名や商人などの使節、受職倭人が渡航して貿易を行った。
朝鮮は、渡航者急増に対処して、朝鮮側は渡航船の寄港地を乃而浦(薺浦)(現慶尚南道昌原郡熊川面) 、富山浦 (現慶尚南道釜山市) 、塩浦 (現慶尚南道蔚山市) に限定して日本人の貿易を許し、倭館を設けている。
島根大学法文学部が出版した「山陰における日朝関係史(1)」の中に、次の記述がある。
15世紀は、西日本各地で地域レベルの日朝交流が活発に推進された時期である。
ここでの国際交流は、日本国を代表する室町幕府を媒介しないで、地方の大名がそれぞれ個別に朝鮮王朝と交渉し、100年近くに及ぶ長期の交流を継続 的に積み上げていったことである。
ただ関係史料としては、朝鮮王朝による 『李朝実録』 だけであり、日本側の記録はほとんど残っていない。
この時期に、 地域レベルでの国際交流が活発化した背景には、第1に、 朝鮮王朝が倭寇対策として西日本各地の大名との通交政策をとったことがあげられる。
第2には、「日本国王」である足利将軍家には朝鮮との外交関係を一元化 するだけの力がなく、倭寇禁圧にも有効な対策をとらなかったことから、朝鮮側としては倭寇防止の実をあげるために、西日本各地の大名を相手に通交関係をもつことを得策としたが故である。
そして第3に、幕府や諸大名はともに朝鮮王朝がもっていた先進的な文物の受容と、 交易による利益に大きな期待をかけていたことなどをあげることができる。
ただし通交といい、交易といっても、対等平等な経済交流ではなく、日本側が土産をもって挨拶にゆくと、朝鮮国王は相手の未開と従順さをあわれんで、土産品に数倍する物品を下賜するという朝貢貿易であったといってよい。
このため将軍足利義満は「日本国王源道義」を名乗り、 山陰の諸大名も「藤観心」 とか「源鋭」などと中国風 (朝鮮風) の名前で通交に当ったのであった。
北島万次氏は、朝鮮王朝の通交政策の特徴を 次のように述べている。
「李氏朝鮮の通交政策は前代からの伝統を継承し、中国に対しては事大、近隣諸国に対しては交隣を基本原則としました。
この場合、事大とは、勢力の強大なものに従属すること、また交隣とは、たがいに対等な立場にたって交流することを意味します。
明は宗主国として東アジアの諸民族に文化を伝えて華夷の世界を形成し、周辺諸国は宗主国としての明に対し、事大の礼をつくす、その礼の原理とは身分の尊卑、上下の秩序をあきらかにすることであ る。
朝鮮はこの考えのうえにたって日本との通交を展開したのです。」
北島 万次:日本の歴史学者。専攻は日本中近世対外関係史
これによると、日朝貿易も朝貢貿易であり、日本側はかなりの利益を上げたようである。
また、朝鮮交易は、倭寇対策の一つとして始まったとされている。
倭逮というのは、高麗や明の史書で使われている言葉で、日本人の海賊行為をいっている。13世紀の20年代にはじまり、14世紀後半期に頂点に達し、高麗王朝を滅亡させた原因の一つにもなったといわれている。
倭寇と「太平記」
高麗王朝は倭寇禁圧を要請するために、日本に金龍ら17 人を使節として派遣した。
金龍らは貞治5年/正平20年(1366年)の8月13日に高麗を出発 して、40日余をかけて出雲国杵築に到着する。
「太平記」の巻第三十九「高麗人来朝事」にこのことが記されている。
高麗国の王から、元国皇帝の命令を受けて、使者十七人が我が国にやって来た。
この使節は中国の至正二十三年八月十三日に高麗を発って、日本の貞治五年九月二十三日に出雲に着いた。
出雲から宿駅を重ねて京都に着いたが、洛中には入れなくて、天龍寺に置かれた。
この時の天龍寺住職の春屋和尚覚普明国師が文書を受け取った。
・・・・(文書 略)・・・・
賊船が異国を侵害することは、四国、九州らの海賊どもがすることであり、都から厳罰を加える方法がないというので、返書を作らなかった。
ただ来朝して文書を献じた褒美として、鞍を駆けた馬十頭、鎧二揃い、銀の太刀三振り、御綾十反、絹織物百反、扇子三百本を諸国の見送り人を添えて、高麗へ送り返された。
大陸からの使者は通常は九州に上陸する。
しかし、九州には倭寇の本拠地があるという事で、そこを避けて出雲に上陸したということと思われる。
高麗からの文書には、倭寇の非道な振る舞いを云いながらも「もし(我々が)兵を起こして捕らえさせたなら、おそらくは交流の道に背くだろう」と云っている。
これは、自分たちでは掃討できないほどに厄介な賊たちであって、持て余しての挙げ句の使者派遣した顕れなのかもしれない。
当時の室町将軍は第2代足利義詮である。
その後、第3代室町将軍・足利義満によって倭寇の鎮圧が始まる。
倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、応永11年(1404年)から勘合貿易が行われるようになるのである。
43.4.6.2.土屋氏の海外交易による勢力の挽回
土屋宗信は、幕府に降参した応永21年(1414年)に、早くも桜井ノ津を拠点にして朝鮮貿易を開始した。
次の画像は桜井ノ津と呼ばれた場所の現在の状況である。
古来この地は桜井郷に所属して郷中唯一つの水路を以て海に通ずる重要地であった。
往時 川戸は現在のような平地は存在していなかった。
と言うことは一面に江川の水を湛えた一大湖面の景観であった。
往時は江川の水量も豊富で河床も現在よりははるかに低くかったので、日本海の湾の入りこみ方もずっと川戸近くまで寄っていた。
川戸・住郷(谷住郷)の地は桜井郷中の良港と言う意味から桜井の津と名づけて、邑智郡奥部の物資を 積み出し、外海からの物産を輸入していたものである。
この朝鮮貿易で、土屋氏は相当に資財を蓄えたようである。
7年後の応永23年(1417年)に次のような出来事があった。
応永23年7月、後小松上皇の御所が火災に遭った。
幕府はその修理の経費として諸国へ一郡百貫ずつ の郡銭の徴収を命じた。
石見については土屋に対し、今度の事件の罰金として石見六郡の郡銭六百貫を納入させ(つまり、石見の諸領主の負担分を肩代わりした)、そ の罪を許し家領を回復させた。
600貫は、色々な見方があるが、大雑把に現在の金額に換算すると、およそ9000万円になる。
同時に、滅亡した都治家も再興してやるべきだということになって、都治の先祖行連の兄河上祐真の子孫又次郎宗行に佐波の一族明塚の娘を娶らせ、烏丸豊光に預けられてあった都治を返還させて与えた。
土屋賢宗
土屋宗信が朝鮮と交易した記録はないが、応仁の乱の真っ最中の文明2年(1470年)に土屋宗信の子孫である土屋賢宗朝鮮と通交したと、朝鮮の「海東諸国紀」に記載されている。
また、土屋賢宗は、宝徳4年(1452年)に谷住郷に宇佐より住江八幡宮を勧請し、自ら大旦那となった。
<海東諸国紀>
「海東諸国紀」は、李氏朝鮮領議政申叔舟が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書で、1471年に刊行された。
余談ではあるが
土屋氏は桜井ノ津を拠点に貿易で稼いでいたが、小笠原氏もいくばくか朝鮮貿易に関係をもっていた、と「川本町誌」はその考えを述べている。
また、江の川沿いの江津、渡津、田津、今津(美郷町乙原の田水川河口付近)、湊(美郷町港)などが、かつての貿易港として現在もなおその名を残しているという。
<続く>