女として大阪で暮らす2

初心にもどり、ちゃんとブログをつくりたいですね。
たまに、読んでください。誤字脱字は、ご容赦くださいね。

5年前にあったいじめ。

2015-07-02 17:49:07 | 日記
私は今だからわかるけど、自宅に入られたのも部屋を荒らされたのもいじめだとおもった。
部屋の、パソコンが壊されていたり、炊飯器とか、電気ポットが壊されていたり。

たぶん、いじめの一環だとおもう。
その前から、私はある人に、相当嫌がらせを受けていたし。

その人は、私に対してひどいことをいうのだ。
「馬鹿」「外人」「デブ」それは、私の名前のように言うし。

部屋にたくさんの親戚などを集めて暴れたり、騒いだりしたのもいやがらせかもしれない。
相当、いやがらせされた、そいつは今も元気に生きているがたちが悪い人。

最近わかったが、そういう人は、どこでも弱いものいじめをしているし、自分も在日だからいじめられたのだろう。
そのお返しで、弱い立場の自分に、ひどいことを言う、「でぶ」とか、ひどすぎる。

いろいろいじめはあるが、おとなになってもあるのだ。
そして、女一人で生きていたら、男の変なやつは、いやがらせをすることもある。

女だから、弱いからなきねいりするから。いじめるのだ。
私は、それでもそいつがまたやりかねないと、いつもいらいらしている。

馬鹿にするのはあたりまえだが、そいつはわざと、待ち伏せしたりしたこともある。
会いたくないので、私は気をつかっている。

いじめなんて、なくなりはしない。
弱いものは、いじめにあうのだ。あいつはいつまたやるのかわからないので、本当につらい。

介護施設や、介護の仕事でも、ひどいことが合った。
介護の会社の社長は、いつもこういっていた。

「人を5人ぐらい殺さないと、一人前になれない」

どういう意味なのかは、わからないが、いまでもおそろしいのだ。
その介護の会社では、利用者が何人か、わけもわからずに死んだのは今でもおそろしい。

弱いものは、世の中の弱者は、殺されるのだ。
その介護の社長は、楽しく死んだ利用者の残した預金で、今でも旅行を楽しんでいるらしい。

死んだ利用者は、身寄りがいないので、死んだら預金など全部、社長のものなのだ。
何人か死んだ後に、大きなデイ施設が建った。そのお金はどこからきたのか。

利用者の、お金なのか、恐ろしいので事実はしらないが。
でも、実際社長は、利用者を何人か、罪にならない方法で殺したのかもしれない。

事件にはならないけど、これが介護の現実なのだ。
弱者の利用者は、介護の会社に飼い殺しにされたのだ。私はだから介護を信用していないたぶん永遠に。

好きなあなた(文鳥花子作)

2015-07-02 15:11:44 | 日記
僕は、ある女をすきになった。
その女は、長い間一人暮らしで、村のはずれにすんでいた。

小さな僕の心は、どきどきしていつもその女を想うのだ。
なにをしたいわけではない、その女と話をしたいそれだけなのだ。

僕は、君に恋をしたできるなら、一度お話がしたい。
心の中では、いつも言えるのだが、ほんにんのまえではいえないのだ。

その女は、貧乏でいつも貧しい身なりをしていて、びじんではないのだ。
どうしてその女を好きになったのかは、わからない。

只、すきになった、はじめてみたときから、ひとめぼれというやつなのだ。
でも僕は、やがて遠くの町に行かなくてはいけないときが来た。

それでも、一度もいえないまま、去っていくのはさびしかった。
おもいきって、一度告白しようと、女の家の前にいった。

女は、不思議そうに、何かを感じたように、男にいった。
「わたしは、もう実が熟すような激しい女でないのです」

女は、暗い過去と、暗い人生を送るたびに年をとっていってしまった。
そばで見る女は、老婆のように、しわがより、悲しく腰が曲がっていた。

男は驚き、あとずさりして、かえっていった。
あの女が、あんなに年寄りだったとは、とても驚いた。

そして、男はその女をあきらめることにした。
やがて、その男は旅立っていった。

その女は、好きになる男たちをどうにかして、さけたかった。
恋愛は、あきあきして、ひとりがすきだった。

男が尋ねてきたときは、知り合いのおばあちゃんに頼んで玄関にでてもらった。
自分によく似た、老婆をしかけたのだった。

「おばあちゃん、ありがとう、きょうもたすかったわ」

「あんたも、たいへんだね、もう恋はしないのかい」

「私は生きるだけで精一杯で、人を愛するだけの余裕がないのね。またおねがいね」

女は、覚めた目をして一人暮らしを続けていた。
男たちは、いつもだまされて、しょんぼりと帰るのだったが、それは、仕方のない運命だったのだ。

西成の屠殺の人を見て。

2015-07-02 11:02:04 | 日記
の人を見て、驚いたのはの人の仕事だったことです。
普通の人は、続かない仕事みたいです。

昔は、西成の中開あたりに、屠場があり、肉になっていたそうです。
今では、南港あたりの奥のほうに、あるらしいのですが。

血をたぶん海にながしているのかもしれませんね。
牛や豚を殺すことには、仕事柄大変だそうです、そして怪我もたくさんするそうです。

しかし、の人の仕事のひとつとして、誇りを持って働いているみたいです。
何よりも、公務員らしいのです。

だから、安定した仕事だし、慣れたらなんともなくなる仕事です。
牛を殺すことに抵抗がある人は、無理かもしれませんが。

牛を殺すのは、牛の頭に穴を開けて気絶させすばやく血管を傷つけて、出血死させるみたいです。
あっという間に、死ぬので苦しくないらしいのですが、やはり残酷ですね。

その後に、頭とか、手足を切り取り、皮をはいで、肉にするみたいです。
この仕事は、割り切りと体力がいるみたいで、大変みたいです。

動物の血のにおいが、体に染み付いて、風呂に入ってもとれないので、すぐにわかるみたいです。
だから、割り切りができないと、続かないみたいです。

お肉は、おいしいけれど、殺す作業がないと、たべれない。
野菜とかと同じと考えることができないので、私はできそうもないですね。

牛の皮をなめすときのにおいも、そうとうきついらしいのです。
だから、の人の仕事として、動物を殺したりする仕事が昔からあったのですね。

きつい、くさい、危険、そんな仕事を押し付けられたの人は気の毒です。
私は、地区ははっきりとは、知らないのですが、西成にはあります。

大阪には、たくさんあるのです。
その中のたくさんの人が、大変な仕事をしています。

差別とはおそろしいものです。いやな仕事をしている人を差別するわけです。
しかし、屠場の人は、仕事をはっきりといわないで、公務員といいます。

仕事を言うと、嫌われるからでしょうか、それとも何なのかはわかりません。
の仕事は、ごみ集めとか、いろいろあるけど、必要不可欠です。

それでも私は、差別される対象の仕事をしている人を気の毒に思います。
生きていくためなら、いやなことはしたくないけど、誰かがしなくてはいけません。

動物の命を奪う、そして皮をなめしていったり、肉を解体する。
この世の中に、やはりなくならない差別に苦しむ人は、この仕事をするしかないのかと悲しく思います。

未亡人花子になって。

2015-07-02 08:11:59 | 日記
私は、二十歳のときに結婚した。
ある会社の現場同士のふたりだった。

お互いに知らない同士だったが、おばちゃんの作業場に私が招かれて。
だんなになる人にあったのだ。

だんなは、無口でおとなしく外見は大泉洋のようなひとだった。
ひたすら、休憩でも話はしなかった。

それでも、現場では、男の人たちとおばちゃんと楽しく休憩していた。
私が、お茶や、お菓子を用意してみんなで話していた。

だんなは、何にもしゃべらないで、いつもしずかなひとだった。
あるときに、みんなにチョコをあげるときがきた、義理チョコだった。

その中でお返しがあったのだ、二人死んだだんなと、もうひとり。
みんな、同級生だったのは、あとあとわかるのだが。

私は、とにかくまじめな女で、いろいろなことも知らない人だった。
そのうえに、仕事でも失敗したりして、いろいろ悩みもあった。

返事が来たので、その手紙にある電話番号に電話してみた。
いろいろな悩みやら、私のくだらない話につきあってくれた。

もちろん、無口だから、いつも聞き役。
それでも、だんなの魅力は、運転がうまいことだった。

そのころは、競馬で当てた頭金で、車を買っていたのでそれでドライブした。
初めて行ったのは、ルパン三世という、大垣の喫茶店だった。

そして、赤い糸のはなしだった。
たぶん、付き合った女には、みんな話していたとおもうが。

私には、とてもかんじのいい、いい運転手でたのしかった。
結婚はかんがえていなかったけど、ずっとそれからつきあった。

あるときに、昼間二人で寝ていた、偶然、それをだんなの父親にみつかった。
それでしまったとおもったのか、そのお父さんが、私をもらいたいといい。

二人は、籍だけいれて、結婚したのだ。
でも、おままごとのようでいまでも、なんにもできなかったのをなつかしくおもった。

子供には、恵まれなかったが、20年余りとても楽しい人生だった。
だんなは、体が弱く、40歳で肝機能がよわりきり、酒も飲みすぎて死んだ。

そして、私は40歳で未亡人となった。
再婚をすることは、ないと思ったが、あまりに誰とも付き合わないのでへんにおもわれた。

再婚しないのは、若いときのときめきを誰にも感じないし、たのしくなかったから。
つまり、おとなしく話をずっと聞いてくれる男性がいなかったし、私も若くなかったか。

そのために、馬鹿にされたりした。
男にもてない、結婚できない人間とも思われた。

しかし、一度でいいと感じている。
若いときめきは、一度でいいし、結婚は案外大変で苦労も多いし。

若いときは乗り越えられることも、今では無理だと思うしね。
それでも、再婚しない理由が、レズなんて、とんでもないことに。

死別した女は、昔は尼さんになって、隠れてすんだものだし。
わたしも、ひっそりと、残りの人生をおくりたい。

だから、未亡人になるべくしてなったけど、寂しいことばかりだ。
でも、昔のことを思い出しながら、一人で生きるのは、すこしだけしあわせかもしれないが。

遺伝

2015-07-02 05:59:15 | 日記
死んだおかあちゃんは、花が好きだった。
小さな畑を借りて、ジャガイモ、大根、菜っ葉などいろいろつくっていた。

あいたところに、花を植えていた。
見事に咲いた、バラとかきくとかを今でも覚えている。

いまでいうおしゃれな、ポタジュというところだが。
そんな母がいなくなり、私も畑がほしくなった。

お金がないから無理なのだが、畑を見ると母をおもいだす。
ジャガイモのとりたて、さつまいもはとてもおいしかった。

近くの畑では、イチゴや、とうもろこしもつくっていた。
さといもも、でっかい、葉っぱがとてもたのしかった。

母は、幸せな女ではなかった父がお金遣いが荒かったので苦労した。
わたしは、借りてきたパンと、近くの雑草で育った時期もあった。

それでも私が15歳ぐらいになると、家の前に畑を借りて楽しくいきていた。
貧乏とは、友達であったが、作物をたのしくつくっていた。

お金はたくさんはいらないけど、土地はとてもいい。
大きな家には住めなくても、畑はあこがれる。

家庭菜園はできないので、コンテナに少しトマトを植えたらとてもおおきくなった。
一人では十分なほどに、実をつけてくれるし、たのしいものだ。

貧乏まで遺伝したけど、この小さな野菜の花や、実を見るとこころがおどる。
そして、草花もたくさん花をつけると、たのしいものだ。

遺伝のDNAは、うまれたときにもうくみこまれているらしいが。
自然と花や、野菜作りの楽しさは、くみこまれていたのかもしれない。

人に対する思いやりがないのは、父のせいだ。
父は、何よりもギャンブルが好きで、私のことなどどうでもよかった人。

父のいいところは、ひとつだけだ、あたまのいいひとだった。
私は似ているのは、文字を書くところ、習字のような字をかくらしいので。

絵もうまかったけど、わたしはにてない。
遺伝は、こわいものだ。

梅干を今年もつけたけど、これも遺伝のしろものだ。
なんだか、面倒だが、たのしいのだ。母もよく梅干をつくっていたから。

私は、おばあちゃんになってはじめて、孤独を感じた。
子供のころに感じた、孤独ではなく、生きていく一人をはじめて感じた。

誰も助けてもらえないけど、さみしさよりも、不安を友達にいきることになれはじめた。
母は、悲惨な人生だったかもしれない、でも畑の野菜を見るときはたのしかったにちがいない。

わたしも、今はスラムのような町にすんで、楽しくない余生をおくっている。
でも、小さな花たちを見て、少しは昔の楽しかったことをおもいだしている。

トマトもそういうわけで、今年も育てている。
小さな赤い実を見るとわたしが、心が躍るのは、なぜかわかるのだ。

母が、貧乏で楽しくなかった人生で、ひとつの楽しみだったのは、花ややさいたちを育てること。
わたしも、漏れなく遺伝したのは、やはり育てる野菜や花を見ることだ。

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