SIDEWALK TALK

独墺紀行〈4〉 城壁のまち

この『独墺紀行』は、旅そのものの内容から、どうもわき道にそれてしまう。
ドイツやオーストリアについての僕の知識がとぼしいために、
旅先の史跡や故事を正確につたえることができない。
だから、そのときインスパイアされた所感のほうに、つい軸足をおいてしまう。


rothenburgロマンティック街道のハイライト、「ローテンブルク」を散策した。
ローテンブルクは、市壁にまもられたまちだ。


その市壁のなかの街並み全体が、まるで映画セットのような
中世のたたずまいをしている。
17世紀以降、商業ルートから外れてしまったことが幸いして、
むかしの姿のままのまちがのこった。


市壁の周囲は、わずか5キロほどにすぎない。
じっさいに歩いてみたが、2時間もあれば市壁はもちろん、まちのほとんどを網羅できる。
ちなみに現在、市壁内に住んでいるのは4千人ほどらしい。
ローテンブルクに市砦が築かれたのは10世紀からで、
現存している最古の市壁は12世紀のものだそうである。


日本にも古い城壁都市がある。
奈良の都、「平城京」である。
もっとも外敵などいなかった平城京に、大した城壁などなかったにちがいない。
しかし、平城京が唐の帝都 長安を模して造営されたことはまぎれもない。
長安は当時世界最大の城壁都市だから、
平城京は城壁都市の子ども、もしくは孫といえるのではないか。


ムダ話ながら、長安は国際都市でもあった。
シルクロードを通って西方からくる胡商(こしょう)は、
ペルシアや東ローマ帝国の商品や金銀貨をもたらしていた。
街には現在でいうところのバーのようなものがあり、
イラン系の胡姫(こき)が客に葡萄酒(ワイン)を注いでいたらしい。
ちなみに「胡」とは、漢民族にとって異文化をもつ民族を意味する漢字である。


もちろん平城京は国際都市などではなく、長安のような賑わいなど毛ほどもなかった。
しかし、約20万人ちかい人口があったとの推測もある。


ローテンブルクにしろ、長安にしろ、
市壁をふくめたまちの建設には、商品経済の沸騰という必然性があったと思う。
それにひきかえ8世紀初頭の日本には経済などというモダンなものはなく、
平城京を一歩でれば、竪穴式住居が点在していたはずである。
平城京のような巨大な都市を、当時の日本政府はなぜつくったのか?
この主題は僕の範疇をこえるので、他にゆずりたい。

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