SIDEWALK TALK

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経絡秘孔

2023-11-10 08:08:00 | 健康・病気
Letter腰をいわしてしまった。
いわゆるギックリ腰。
歩行することもままならない。


苦しんでると、友達からLINEがきた。
ギックリ腰を告げると、
オススメの鍼灸院を紹介してくれた。
僕はマッサージやあん摩の類いがどうも苦手で、
鍼灸院や整体にいったことがなかった。
しかし痛みに耐えきれず、出かけることにした。


鍼灸院を訪れると彼女が電話しいてくれたらしく、
さくさくっと施術室に通された。
うつ伏せに寝かされ、診療がはじまった。


なんせ初体験。
そしてうつ伏せ。
何をされてるのかわからない。
電気が流れたような、
超音波を当てられてるような。
ともかく小一時間施術してもらった。


どうやら腰痛の施術に加えて、
身体の歪みも正してくれたようだ。
とはいえ北斗神拳の経絡秘孔のように
一突きで劇的回復というわけにはいかない。
しばらくは療養生活が続くんだろうな。

ゼネラリスト

2023-11-07 14:23:23 | 音楽
Letter武久源造氏のコンサートに出かけてきた。
その余熱がまだ僕の中に燻っていて、
心の丈を文脈など考えずに気ままに綴ってみたい。


浅学菲才で恥ずかしいのだけど、
氏についてはお名前を聞きかじっていただけで、
その功績や才能について知るところが薄かった。
裏を返せば、無垢の状態で氏に触れられた分、
先入観抜きでその音楽を鑑賞できた。


まるで中世の才人のような人である。
中世には多才な人が多かった。
欧州の代表格はレオナルド・ダ・ヴィンチで、
我が邦には千利休などがいる。


氏は盲目である。
それも全盲だという。
にもかかわらず鍵盤楽器の優れたプレイヤーであり、
作曲家で、指揮者で、一流のバッハ研究家でもある。
さらに卓越した楽器製作の工匠でもある。
まさに音楽界のゼネラリストである。


中世に衰退し、近世以降は根絶していたジルバーマン・ピアノを
氏は手探りでよみがえらせた。
盲目の氏が文献を精査し、素材を吟味し、
信じがたいことに自ら槌をふるった。
まさに刻苦勉励の日々だったと想像されるが、
氏のお人柄から推察すると、
おそらく楽しくて仕方なかったにちがいない。


今回、幼なじみからのお誘いで、
思いがけず武久源造氏のコンサートを体験できた。
ホール全体に氏の演奏と情調が満ち溢れていて、
そこにいる人たちを自然と笑顔にしていた。
その上質なエンタテイメント空間に
僕は陶然として家路についた。

ジルバーマン

2023-11-06 15:35:08 | 音楽
Letter僕はある意味、とても贅沢な場所に住んでいる。
自宅から徒歩3分圏内に
クラシックのための音楽ホールがあるのだ。
糞耳の僕にはわからないのだけど、
そこで演奏する音楽家たちは、
そのホールの音響設計を手放しで賞賛している。


過日、武久源造氏のコンサートが
その件のホール「sala arietta」でおこなわれたので、
友達を誘って出かけてきた。
とくに興味深かったのは武久氏が使用した楽器、
「ジルバーマン・ピアノ」だった。


詳細を語る能力はないが、
四捨五入すると、バッハの活動期や
モーツァルトの前半生に主流だったピアノだという。
つまりこのピアノで彼らは作曲し、演奏していた。
絶滅して久しいが、
武久氏が膨大な資料群から構造を考察し、
様々な素材を試しつつ、まさに手作りで完成させた。


今回、氏は24時間かけて、
この楽器とともに車で来訪してくれた。
アドリブが散りばめられた演奏の素晴らしさは言うまでもなく、
曲間のトークもユーモアと機知に富んでいて
退屈するということがなかった。


僕のような無粋で無教養な人間にとって、
氏の音楽やそのお人柄に触れることは無上の幸せであり、
得がたい時間になった。
武久源造氏についてもう少し書きたいのだけど、
紙数が尽きた(そんなものないのだけど)。
いつか思い立ったら、その機会に綴ってみたい。

晋州JCのことども

2023-11-02 10:51:21 | 青年会議所
Letter中津JCのかたち 「#06 晋州JC」 (2003/02/27)


教科書ふうになるが、晋州(チンジュ)市は、大韓民国の南部、慶尚(キョンサン)南道の人口32万人の都市で、洛東江(ナクトンガン)支流の南江(ナムガン)にのぞむ道西部の行政中心地である。
豊臣秀吉による精神病的自己肥大としかいいようのない朝鮮出兵(文禄の役)、韓国でいうところの壬辰倭乱のさなか、1593年に加藤清正ひきいる12万の日本軍に対し、朝鮮側の6万人が晋州城に籠城し全滅した悲劇的な古戦場として知られている。
晋州城陥落のあと、かの地に駐屯したのが豊前中津藩主であった黒田長政の部隊で、晋州総督とでもいうべき占領将校は、耶馬渓出身の侍大将・毛谷村六助(けやむらろくすけ)だった。


晋州市の精神的象徴は、「義岩」(ウィナム)と「義妓祠」(ウィギザ)である。
「義岩」は見た目には何の変哲もない川べりの岩だが、1593年に晋州城が陥落し日本軍が祝宴を催したとき、宴のために集められた官妓の朱論介(ジュ・ノンゲ)の護国忠節の舞台となった場所である。
宴のとき、着飾って舞った論介は、泥酔した日本の侍大将・毛谷村六助を矗石楼(チョクソンヌ)の下の岩場に誘いだし、六助に抱きつくとそのまま岩下の南江の流れに身を投じ、自らの命と引き替えに六助を死に至らしめた。
その岩が現在「義岩」の名で残っており、この妓生(キーセン)の忠節の話は、韓国のだれもが知っている。矗石楼の隣に、論介の義挙をたたえた祠がある。
それが「義妓祠」である。


このような歴史的背景の都市だから、1900年代初頭からの理不尽な韓国併合(韓国では国権強奪とよぶ)や、戦後の李承晩(イ・スンマン)大統領の排日政策と相まって、以前は抗日感情が強い地域であったらしい。
晋州市のお祭りで、日本武者風の鎧を着せた人形を馬で曳かせ、見物人がその鎧武者人形に石を投げつけるといったものも過去にはあったそうである。
もちろん、現在は親日的な穏やかな学園文化都市で、北海道北見市と姉妹都市になったり、島根県松江市や愛知県豊橋市との青少年スポーツ・文化交流も盛んにおこなわれたりしている。


一方、中津JCと晋州JCの姉妹交流の歴史に目を移せば、その歴史は古く、そして燦々と輝きつづけている。
知ってのとおり、1973年(昭和48)に姉妹締結の調印をし、今年で交流30周年を迎える。
九州の多くのLOMが、隣国である韓国のLOMと姉妹交流をしている。
しかし、多くの姉妹JCは、数年に1度行き来をするだけだとか、交流といっても、メンバー同士が盃を交わす程度の交流がほとんどのようである。
中津JCと晋州JCのように、毎年の交流はもちろん、お互いの地域を巻き込んだ事業を展開してきた姉妹JCは希有なケースである。
とくに、1991~1995年度に実施された「中津国際交流青少年使節団」事業は、多くの両国中学生に国際交流の機会をあたえた。
また、JCの姉妹交流がきっかけで、サッカーU15韓国代表の選手が2名、柳ヶ浦高校にサッカー留学したこともあった。
日韓の近代史や現代史を考えると隔世の感があり、韓国、または晋州の人びとの心の広さに感謝せずにはいられない。


現在、姉妹交流30周年事業については、お互いによきライバルとして議論の限りを尽くしている。
私たちの先輩である中津JCシニアクラブと晋州JC特友会の方々も、真剣に交流30周年の意義を議論し、記念事業の成功のためにコミットしていただいている。
われわれの愛すべき晋州JCとは、ざっといえばこのような関係にある姉妹JCである。

歌舞伎揚

2023-11-01 10:41:32 | 食・レシピ
Letter「歌舞伎揚」

ガキのころ(1970年代)から存在していた。
当時は駄菓子屋さんで、1個単位で売ってたと思う。
値段は覚えていないが、
5円以下だったんじゃないだろうか?

最近はスナック菓子としてパッケージされて、
スーパーやコンビニで売られている。
「変わらぬ美味しさ」と言いたいとこだが、
おそらく当時より美味しくなってる。
駄菓子屋バージョンより、材料や油がよくなってるはずだ。


ウチの事務員さんがこの歌舞伎揚が好きだというので、
僕は街でこれを目にすると買って会社に戻る。
おやつタイムに談笑しながら食す歌舞伎揚。
ある意味、弊社の業務に貢献してるんじゃないかな?