【最新刊】凡事徹底と成功への道 より
《中略》このように、そうしたプロ中のプロの「演説の名手」(「I have a dream」という演説で有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやオバマさん)といわれる人たちでも、きっちりと完全原稿をつくり、頭に入れた上でやっているわけです。 牧師のような人が、説法中に壇上を歩きながら話をすることもありますが、時折、演壇に戻っては原稿を見ています。それは、やはり、忘れて頭が〝真っ白〟になるときがあるからです。それが怖いのです。話しているうちに、パッと忘れて〝真っ白〟になるのが怖いので、原稿はいちおう用意しています。
そうしたなか、日本人の私が、「原稿もなし」で、外国人相手に英語の説法をするというのは、(ニューヨーク講演会(2016年10月2日のFreedom, Justice, and Happiness自由、正義、そして幸福・など)実際問題として〝超生意気〟な話です。ただ、こちらとしては、日本人を相手にするときには原稿をまったく用意しないで話をしているので、それと同じレベルであれば、英語で話したとしても同じことなのです。「来ている人の想念をその場で読み取り、全体のレベルはどのくらいかを分かった上で、そのときに必要な話題と、内容のレベルと、迫力で話をする」ということでは、日本人が相手のときと同じように説法しているわけで、ある意味においては〝生意気〟でしょうけれども、アメリカのプロの人であってもできないことをしてはいるのです。
《中略》
例えば、エル・カンターレ信仰伝道局から出ている支部や地方本部の目標として、植福に重きを置いて活動をしていたようです。そして、それが僧職給や賞与、昇進等を決める際に影響するということだったのです。 以前、私が沖縄で講演をしたときに、こんなことがありました。
三男の裕太が事前に地元の支部へ行ったら、支部長が選挙に立候補しているのに、地方本部長からは、「植福をまだ達成していないので、それを達成してからやりなさい」と言われていて、それまでは政治活動を抑えられているという話を聞きました。 そのときは、なんてバカなことを言うのだろうと思いましたし、「総裁が政治活動の応援のためにここまで講演をしに来ているのに、まだ植福のほうをやらなければいけないなんて、それで通るわけがないでしょう」と、実に不思議に感じたわけです。 あとで聞いてみると、そのころは植福のほうが重視されていたようなので、地方本部長としては、そちらを優先するのも当然だったかもしれません。
《中略》
例えば、支部に配属された新入職員にしても、精舎に配属された新入職員にしても、最初にすぐ感じることがあるようです。それは、支部に配属された人は「大型の研修施設である精舎は〝敵〟なのだ」と、精舎に配属された人は「支部は〝敵〟なのだ」と感じるらしいのです。要するに、「信者のお布施を取り合っている関係にある」ということが分かるわけです。
そういうところは、先ほど述べたトヨタの「カイゼン」のように、「全社として前進しよう」という考え方から見ると、はるかに劣っているものがあると思います。 ただし、これは、「人間の性」であり、「認識力の狭さ」なのでしょう。「自我」は誰にでもあるものですし、自分たちの仲間意識だけでやるようなレベルで仕事をしたがるため、ほかのことに関心を持ちたがらないところがあります。それとともに、ほかの人のことは下に見て、〝自分のところを上げたい〟という気持ちがあるために、どうしてもそうなるのでしょう。 ただ、組織全体を強くするには、ここの文化を変えなければなりません。
《中略》
当会においても、教えとしては、経営学等の話のなかで、「顧客第一主義」「相手の立場を考えよ」「与える愛」「利他」といったことが説かれています。しかし、それをどれだけ教えていても、現実の仕事になれば、そうなってはいないことがいくらでもあるということを知らなければいけません。要するに、すべてが自分中心になっているのです。 組織においても、自我が中心になっていることはいくらでもあります。これらがすべてのレベルを落としているわけです。
《中略》
「全体が見える人」が出世しなければ組織は絶対に傾く
そのようなところがあるので、政党を立ち上げても、セクショナリズムになっています。 当会で政治にかかわるセクションの人数を見れば、グループ全体の二十分の一もいないでしょう。 つまり、政治活動をしても、実際上、幸福の科学の力の二十分の一以上は動かせないわけです。ほかのところはそれぞれの仕事を持っているので、言ってもききません。自分たちの実績が大事だから動かないのです。 そういうことで、総裁が言ったとしても動かないでしょう。「それは彼らの仕事でしょう」と思って、二十分の一以上は協力する気がないのではないでしょうか。そういったところで孤立していき、分かれていくようなことが起きるわけです。 そのように、どんどん悪い組織の見本になっていく傾向があるので、非常に残念な感じがしてなりません。やはり、保身を中心に考えると、必ずこうなっていくのです。 しかし、全体のことが見えて、「これはほかの局にとっても大事なことではないか」「これは幸福の科学全体にとって大事なことではないか」ということが分かる人は、たとえ立場としては低く、一スタッフや主任であったとしても、実は「経営担当者」なのです。