イエスが、普通の人間ではできないようなことをし、自己犠牲の精神を発揮したことについては、現代的に見て、また、宗教心の低い日本人から見ても、「バカげている」と思うことはたくさんあるでしょう。
多くの人が、「きちんと成功してからの救世主だろうが。バカげている」と思うのでしょうが、逆に、セルフィッシュ(自分本位)ということから、それほどまでにかけ離れた人もいたということです。
人を治し、救いの言葉を投げかけ、天国に入る道を説き続けた人が、罪人と共に死ぬ。茨の冠を被り、血を流しながら死んでいく――。
これが何を意味しているかというと、結局、「霊的である」ということを証明するためには、みなが共通して「よい」と思うようなこの世的な価値観に対して、「霊的価値観は逆のところにあるのだ」ということを、象徴的に表さなければいけない場合があるということです。
人は、この世的、唯物的に発展・繁栄することのみを求めていると、宗教的な本心から離れていくところがあります。
すると、自分の身を護り、利害だけを守るような人間がたくさん出てきて、そういう人を賢い人だと思うようになるのです。
そういう意味において、勉強をしたり仕事で磨かれたりして賢い人、あるいは、自分を護ることに長けた人、自分の利益を守ることに長けた人たちは、ある意味では、イエスを責め立て、古いユダヤの宗教を護ろうと固く信じていた人たちにも似ているところはあるでしょう。
ただ、そのキリスト教徒も、また、次に新しく起きてくる宗教に対しては迫害を起こしているので、このあたりは宗教の難しさがあります。
『青銅の法』より