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たつのこ半畳記 350

坐禅会情報・四季折々の様子を伝えるときどき日記。
令和3年に開創360年を迎えている起雲山大龍寺のブログです。

★ワークショップ「『アップデートする仏教』を体感しよう!」に参加して。

2014年08月25日 | まなび
かねてからお世話になっている藤田一照師が
山下良道師と『アップデートする仏教』を共同執筆された。

この本を読まれたあるお坊さんが「実際に話を聞いて体験しないと!」と思い、
書店や出版社の主催ではなく、自らの学びのためワークショップを企画されたそうです。


今回、私が参加したのはその3回目。
大阪と名古屋での開催に続いて、初めての東京開催となりました。





午前中は座学。
はじめに藤田師が説かれることに山下師がつっこみ、
次は逆に山下師が説かれることに藤田師がつっこみを入れる。

当日の参加者は、藤田師の縁で来られた方と、山下師の縁で来られた方という風に、
だいたい2分されているとのことでした。
両師どちらからかは失念しましたが、
青春時代を幸せに過ごした人は藤田師に共感していて、
逆に鬱々と過ごした人は山下師に共感していると。

なるほどなと(笑)







お昼をはさんで、畳敷きの広間にて坐禅瞑想の指導。

坐蒲・座布団は使っていますが、足の組み方などはそれぞれのよう。
自分は慣れた格好がいいので坐禅で説明を聞きます。


ただ、いつも通りに足を組んだことによって、
「想う」ということを拒否してしまっていたのかも知れません。
ご指導に従って様々なことをイメージしていくことには…かなり疲れました。

初めての事を行うにあたり、身体的な内容であれば身体が疲れます。
それと同じように、心理的な内容であれば心が疲れるのかもしれません。
きっと、何度かやってみれば、「想う」ということにも馴染むのでしょう。







坐禅瞑想の後は質疑応答など。
「想う」ということ、「イメージを想起する」ということについて、
参加者それぞれの考え、身についていることが全く違う事に気付かされました。

「瞑想」をされている方の心の分析のしかたが微に入り細に入りで、
ひたすらに坐禅に打ち込むという曹洞宗の坐禅に馴染んできた私には、
坐禅中の自分自身の心の様子、あり方を観察、分析、位置づけるという作業は
そういう分析ってどういう意味があるのかなぁ…と思えてしまって、いまいちしっくり来ないものでした。
坐禅を続けていく上ではわきまえておく事だとは思うのですが、これはまだまだ自分の不勉強さ、深みの不足ということで了解しています。












たつのこ的仏教1.0、2.0、3.0 メモ


 仏教1.0

   人はもとから佛としての性質を持ち備えた存在としてあるとする。

   人々の苦悩や迷妄に向き合わず、定型化された儀式にとどまった仏教。

   日本の伝統仏教を批判的に「葬式仏教」と称する人たちが批判するスタイル。


 仏教2.0

   人は悩み苦しみ迷い間違う存在であるから仏教的な手立てが必要だとする。

   人々の苦悩や迷妄ありきで、問題解決のメソッドとして利用する仏教。

   一見、こころの問題に取り組んでいるようみ見受けられるが、
   その取り組みが1つの型枠にはまってしまっていて根本解決に至らない。


 仏教3.0

   人々が生きているこの現実世界を見据え、見据え続けて、
   何ものにも定型化されない活き活きとした生の仏教。

   それは1.0→2.0を凌駕する新しい3.0ではなく、
   仏教の原点回帰という意味での3.0である。仏教3.0とは、仏教0.0のこと。
   ただしこれは、仏教原理主義ではなく、1.0や2.0を肯定したアップデート。



「仏教X.X」と言ってしまうと、自分以外の別存在として
「仏教X.X」があるかのように錯覚をしてしまう人がいるかもしれない。

おかしな言い方かもしれないが、「仏教」というものはない。
親切に言えば、人間の人としての営みを外れた所に存在したことは…ない。
別の言い方をすれば、仏教は実践者、信仰者によって、存在してきた。


上記のような3つのバージョンを取り入れれば、
自分自身が「仏教1.0」なのか、「仏教2.0」なのか、「仏教3.0」なのか、
そこが、アップデート問題を理解する決着点ではないか。



ゆえに「葬式仏教」というもは、もとから無いのである。

人々の苦悩に応えてこなかった僧侶と、仏教的な観点で人生を見直してこなかった人々が、
葬送の場に限って仏教的な儀礼を取り入れていたという状況が、
仏教を批判的な意味合いでの「葬式仏教」にしてしまったわけで、
問題となるべきことは、人がいかにして人生を生きるかということ、
自分自身がどのような問題意識を持って生きるかということであって、
自己を置き去りにし仏教の善し悪しで問題をかたづけてしまうのは責任逃れである。


私はこれからも、檀信徒やご縁の方に不幸があれば、
伝統的な儀礼に反することなくご葬儀を営んでいくでしょう。
しかしそれをそのまま「仏教1.0」と考えることはありません。

ただもしそこにバージョン付けをしたい人がいるというなら、
3.0なる葬儀を修めていきたいと思います。





山下良道師ウェブサイト
 http://www.onedhamma.com/?p=4893

http://meijyu.tumblr.com/
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