気づきの瞑想

「イライラ、ムカムカ」「もっと欲しい!」「ぼんやり…」など心のツラ~イ症状に効きます

人生は“はじめての感情”だらけ~名前の付けられない感情との付き合い方

2012年10月27日 09時25分06秒 | 修行ノートから

 ●もくじ/サイトマップに移動
「気づきの瞑想」本棚を見る


NHKの「100分de名著 鴨長明“方丈記 ”」のひとコマ、その2。
今回は「気分をあらわす言葉のむずかしさ」のお話しを、瞑想実践のポイントと比較してご紹介します


100分de名著 鴨長明“方丈記 ” <終>第4回「不安の時代をどう生きるか?」
出演者【ゲスト】作家・僧侶・芥川賞受賞…玄侑宗久,【解説】京都産業大学教授…小林一彦,【司会】伊集院光,島津有理子



-------------

 

“物ウシトテモ 心ウゴカスコトナシ”

(現代語訳 “憂鬱(ゆううつ)でやる気がおきなくても、思い悩む事はない。”) 

 

(玄侑さん)
“物ウシ”という言葉はとてもむずかしいと思うんですが、心の色で言えば、何色なのか分からないっていうんですかね。

自分がどういう気分なのか、はっきりしない。(はっきりしない)という時に、はっきりさせたくなっちゃうじゃないですか。はっきりさせたい、って思ったとたんに、そういう証拠を探してこれるんですよね。目も耳も、鼻も。

でも現状はただ“物ウシ”なんですよ。

(小林さん)
“ウシ”とは、憂鬱。気持ちが塞ぎこんで、何もやる気が起きないという感じのことなんです。

(玄侑さん)
今回(東日本大震災で)も、津波の映像を、繰り返し日本中が見せられたわけでしょ。ところが、津波の体験のある人って、ほとんどいないんですよ。すると、あんなふうに水に襲われた時に、どんな気持ちになるかってだれもわかんないじゃないですか。それは、痛いとか、冷たいとか、悲しいとか、っていう言葉にどれも当てはまらないじゃないですか。

それで、当てはめられないもんだから、具合が悪くなっちゃって、ものすごいものが(頭に/イメージが/感覚が/感情が…)浮かんでいるのに、アウトプットできないわけです。言葉にできない。だから心療内科に通いだす人もでるくらいなんですけど、それは“物ウシ”の極致だと思うんですよ。

言葉にできない体験を、わざわざ言葉にしなくたっていい。言葉にして、ひどく悲しまなくたっていいじゃないか、っていうような。

(島津アナ)
それはそれとして諦めてしまう、っていうことなんですか?

(玄侑さん)
いや、人生って、たぶん初体験の感情なんですよ。だからまだ名前がつかない。それがとても物ウイんですけども、でもしょうがないんですよね。

(伊集院さん)
でも、しょうがない、が正しいんでしょうね。そこにもがくことで、より間違ったダメージを心や体に与えるのに比べたら、こういうことが、ある。その現状だけで動かさないのも、よかろう、というか、仕方がなかろう、ということですよね。なんかそこに僕はとても響きますね。

そこに無理やり病名をつけようとしたり、無理やり整理をつけようとすることで、間違ったとこを傷つけたりする気もするので。

-------------

心に確かにある“感情、気分”なのに、それを表現するのにふさわしい言葉が見つからなくて、不安になる。
不安で落ち着かないから、なんとかつじつまを合わせて、上辺はとりつくろう。
結果、自分のほんとうの“感じ”がわからなくなってしまって、さらに混乱が深くなってしまうかも。
かえってキズを深くしてしまうかも…

“感情、気分”を表現するのにピッタリの言葉がみつからなかったら、わざわざ見つけようとしなくていい。
ただ「気づいて」いればOK

ナラテボー師のご著書の中に、次のようなお話しがあります。
-------------

…私が大事にしていることは、心身に生じてくるあらゆる現象を明晰に自覚し、感じ尽くし、洞察し、慈しむことである。このときのポイントは、心を大きく開いておくことである。すなわち、最初から「考えてはいけない」「感じてはいけない」「怒ってはいけない」などといった価値判断による構えを作らないということが大事である(「「気づきの瞑想」を生きる」 P166)

-------------
テレビでは「しょうがない」ことと説明されていた「言葉が見つからない」ことについて、「では、そういう“感情、気分”とどうやって付き合ったら良いのか」について、具体的な取り組み方が示されていると思います。

-------------

(日本での瞑想修行に行き詰まってスカトー寺を訪れたOさん)
「…欲や怒りといった感情を打ち落とそうとしたり、じっと見つめて小さくしようとするのですが、なかなかうまく行かないんです。…」

(プ)
「…そんなに深刻にならなくていいよ~。なんであれ、考えごとが生じてきたら、パッと手や足の動きに戻ってくる。『今ここ』に気づく。またふっとわれを忘れたら、また『今ここ』に気づいて、戻る。…
サティ(気づき)っていうのはね、ただ気づくこと。『今ここ』に戻ることだよ。…

たとえばOさん、暗闇をなくすためにはどうしたら良いと思う?」

(O)
「電気をつけたり、ろうそくを灯せばいいと思います」

(プ)
「そうだね。…暗闇といくら闘っても、闇はなくなって行かないよね。でも、そこに明かりを灯しさえすれば、たちどころに闇はなくなる。そんな感じで、心の闇にもかかずらう必要はなくて、ただ気づいて、戻ってくればいいってこと。サティはそんな光のようなものなんだよ」

(「苦しまなくて、いいんだよ。」P169 引用、一部加工)

-------------

人生は、“はじめての感情”の連続。 “言葉”にできることは、ほんのひとにぎり。

今の“感情、気分”が言葉であらわせないのなら、ただそうであることに気づいて「今ここ」に戻ればいい。
ひとつ、ひとつ、心に「気づき」の明かりを灯していけばいい

 


もくじ/サイトマップに移動
「気づきの瞑想」本棚を見る 

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンタルトレーニングへ

 

「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語
プラユキ・ナラテボー
佼成出版社

 

苦しまなくて、いいんだよ。
プラユキ・ナラテボー
PHP研究所

 

無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方
玄侑宗久
新潮社

 

鴨長明『方丈記』 2012年10月 (100分 de 名著)
--
NHK出版

 

方丈記 (講談社学術文庫 459)
--
講談社

 


 ←瞑想会参加お申込みはこちら   ←個人面談お申込みはこちら