プラユキ・ナラテボー師をお招きして開催された「気づきの瞑想」会(11月17日(土)@鎌倉)、の講義メモ、
その
質問コーナー。
仏教では、「こころ」と「からだ」を切り離して考えているのでしょうか?
“切り離す”のではなく、こころであれ、からだであれ、構成要素があつまったものと見るのが、仏教。
私たちは、自我の入った見方で、ある構成要素のまとまりを、「こころ」や「からだ」と意味づけ、解釈しているということ。
では、「たましい」があるという考え方はあるのでしょうか?
なんであれ瞬間瞬間、縁起によって生じる現象だから、「たましい」であれ、なんであれ、実体があるということはない。
たましいと関係性を持った認識世界においてはたましいと関係のある事象が現れてくると言えるし、たましいと関係性ができていない認識世界では現れないと言える。これもまた、縁起。これあれば、これあり、ということ。
自我と同じ。自我が作られると、それに応じて「私ってこういう人~」とかいう妄想がつくれちゃう。妄想は現実ではない。
ちなみに、そもそも「現実」とは、先んじてあるものでは無い。
カンフー映画見て、なんだか自分も強いぞって妄想して、机割ろうとチョップしちゃう。でも、割れない。イテッ!この時に、現実が生じる。
社会的なレベルの妄想は、その社会の決め事、共通認識、常識となったりしている。信号の赤は止まれ。信号無視したら危ない。ルール無視してたら、危ない目にあった、それが、現実の生じた瞬間。
社会ルールってみんなで一緒につくったんだな、これも縁起でそうなってるんだな、と理解するのが仏教。なんでも瞬間瞬間生じる関係性なんだな、実体でもなく絶対でもないと分かっていると、囚われが弱くなるし、苦労も減らせる。コンセンサス・リアリティ(同意された現実)の奴隷にならなくていい、こころはいくらでも自由でいい。
犬は、単なる「イ」と「ヌ」に過ぎないと見たらいいのでしょうか?
また、「不快を感じる犬」と「快を感じる犬」がいるとしたら、「不快な犬」に伴うイメージや気分の連なりを断ち切ればいいのか。「快な犬」についても断ち切るべきなのか?
「イ」と「ヌ」と見られるとか、快か不快か見るとか、それはできてもできなくてもOK。大切なのは、感覚の段階、意味の段階、自我の段階という縁起のしくみを理解すること。(縁起のしくみ、参考~<講義メモ、その4>縁起を理解して、苦しみの鎖を断ち切る)
これがいったん理解できれば、不快な犬見て怒ったりする方向に行くんだな、そうやって苦しくなるなんだな~と分かる。智慧が生じる。
さらに、みんなも感覚の段階、意味の段階、自我の段階と進んで、苦しんでいるんだな~って共感できるようになる。慈悲も生まれてくる。
気づけないで、これまでのクセで思考することもあるだろうけど、縁起のしくみが理解できていればOK。智慧というのはそういう普遍的なもの。
「犬」も、「私」も、あっていい。世間ではそういうものなんだから。仮に作っているんだということを理解して、役に立つよう使いこなしていけばいい。
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(瞑想のやり方に、つづく…)
<講義メモ、その8>気づきの瞑想(手動瞑想)のやり方
<講義メモ、その7>~了~
※内容は改変されることがあります。
どうぞこちらもご参照ください。
<講義メモ、その3>よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる
これから開催される瞑想会情報はこちらでご確認いただけます→「瞑想会、イベント情報」
<今回参考にした書籍>
ポー・オー・パユットー仏教辞典(仏法篇) | |
野中耕一(編集、翻訳) | |
サンガ 仏教用語の確認に使用しました。 |
仏教要語の基礎知識 | |
水野 弘元 | |
春秋社 仏教用語の確認に使用しました。 |
苦しまなくて、いいんだよ。 | |
プラユキ・ナラテボー | |
PHP研究所 現代の対機説法! |
プラユキ・ナラテボー | |
佼成出版社 プラユキ・ナラテボー師のデビュー作! |
サンガジャパン Vol.11(2012Autumn) | |
アルボムッレ・スマナサーラ,田口ランディ 吉福伸逸,内田樹,為末大,名越康文,プラユキ・ナラテボー 篠浦伸禎,ネルケ無方,加藤俊朗,鈴木秀子 | |
サンガ (ナラテボー師記事より…)チャルーンサティ法は、集中力やラベル選択力などの何らかの技術を高めるとかではなくて、手や足に戻ってこれたら何はともあれ「オッケー。◯(マル)!」って感じですから、「集中が続かない、ダメだ」「上手にラベルが貼れない、ダメだ……」と「ダメ出し」する必要もなく、マルを増やしていく感じですので、誰でもが気楽にやっていける方法だと思います。 |