日々是好日

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京を彩る その1紅葉の旅

2015年11月22日 | まち歩き

21日連休の土曜日を利用して京都に行ってきました。
はじめは22日の予定だったのですが、お天気を見て21日にしました。こんな時はJR西日本お出かけネットは便利です。なにしろ切符を受け取るまでは何回でも乗車予定の列車を変更できるのですから、しかも無料で。

 朝8時15分の金沢発サンダーバードで京都には10時37分着。学生時代を京都で過ごした私ですから、勝手知ったる京都の街と言いたいところですが、40年も経つとまるで様子が違います。光陰矢の如しとはよく言ったもので、あの頃は、そこここに普通に存在している超有名社寺仏閣に知識も関心もなく、ましてや紅葉に心を動かされるなんてまず考えられず、もっぱら人間様ばかりが興味の対象でした。まさか、お金を払って電車に乗ってわざわざお寺にお参りし、春は桜、秋は紅葉をめでに出かけるとは想像だにしていませんでした。人生とは奇異なものですね。そうはいっても、当時からそういった所に目を向けていた友人がいましたから、単に人間的資質の差かもしれませんね。

 いつもは渋滞を避けるために鉄路で回れるところを選ぶのですが、今回は東福寺から泉涌寺で紅葉を楽しみ、智積院で長谷川等伯の障壁画を、そして国立博物館で開催中の「琳派 京を彩る」という企画展を鑑賞という計画なのでバス利用です。京都駅を出る208系列のバスには、となりの清水寺方面行の長蛇の列を尻目に待つことなくすぐに乗れ、しかも座ることが出来、幸先のいいスタートでした。

 
紅葉の超名所・東福寺は案の定大変な人でした。人混みに紛れながらですが並ぶことなく入園できたのですが、肝心の紅葉がもう一ついやもう二つという感じで赤くない、何年か前に感動させられた通天橋から見下ろした時のあの赤さがないのです。
今年の紅葉は10年に1度の不作(やはり紅葉の名所・真如堂のHPより)らしいのですが、まさにその通りで、こんなんちゃう、こんなはずではと思いながらに撮ったのが掲載の写真です。

 他もこのくらいなのかなーと不安を感じながら東福寺をあとにし、お隣といった感じの泉涌寺に向かいました。東山通りのバス停泉涌寺道からの長い長いゆるやかな登り坂を、日ごろの運動不足を嘆きながらようやくにして登り切り、泉涌寺の一番の特徴である山門から仏殿に向かう下り坂に差し掛かったところ、赤くない、紅葉が全くといっていいほどないのです。
 
写真で何度も見ていますので、仏殿を見下ろすという特異な光景には驚きはなかったのですが、真っ赤に紅葉した木々を眺めながら下っていくという想像が、まさか彩の乏しい中を歩く羽目になろうとは思っていなかったです。
 がっかりしながら坂を下り、仏殿に足を踏み入れた途端に目に入ったのは狩野探幽の「白衣観音像」、天井に目をやりますと狩野山雪の「蟠龍図」と、桃山から江戸を通じての日本画の最大派閥・狩野派の大立者二人の作品があるではありませんか。今度の旅は、最近読んだ直木賞作品・安部龍太郎の「等伯」に触発され、前々から気になっていた郷土の大芸術家・長谷川等伯の作品を見るというのが大目的ですので、安部の「等伯」にも最大のライバルとして登場する狩野永徳の、その孫の探幽の作品を目にするとはなんという幸運でしょうか。
 東山通りまでの戻り路の長い長い下り坂も、タクシーを利用しようかと思うほどに足に来ていたのですが、足取りが少し軽くなったような気がしました。

 帰宅してもう1度確認しましたところ、山門からの下り坂は常緑樹が多く、もともと紅葉はそれほどでもないようで、泉涌寺での紅葉とは御座所や霊明殿あたりが見どころだそうです。
(その2に つづく)


航空自衛隊小松基地航空祭

2015年10月10日 | 日記
先月21日、航空自衛隊小松基地航空祭を見学してきました。
何年も前からぜひと思いながらも、いつも見逃していましたので、ようやく念願かなったというところです。
午後から出かけましたので、一番見たかった航空自衛隊の主力機F-15の飛行は見れませんでしたが、メインイベントのブルーインパルスのデモ飛行には間に合いました。
T-4 という機体なので、駐機されていたF-15を目にした後では、さすがに迫力にはかける気がしましたが、それでも十分にその飛行技術を堪能させていただきました。

金沢に住んでいますので、家からでも小松基地へは車で30分なのですが、渋滞が目に見えていましたので車は避け、JR各駅停車を利用して小松駅、そこからシャトルバスで基地へ、帰りはその逆をたどったわけですが、案の定大渋滞に巻き込まれてバスが基地内ですでに立ち往生、駅まで普通は10分くらいの所が2時間かかりました。
ずっと立ちっぱなしで、おまけにJRの電車も座ることが出来ず、日ごろの運動不足を一気に解消して、大分おつりがきました。

政府の判断一つで実戦に立ち向かわなければいけないという安保法制の問題がありますので、複雑な感情で、基地の自衛隊員や飛行機を見ておりましたが、隊員のみならず、ひいては私たち国民皆が、今までにない事態に直面することになったわけですが、私にはまだその覚悟がありません。我が国が攻められたのなら、是非もなく立ち上がらなければならないのは自明ですが、そうではなくアメリカがどこか遠くで戦うことになった地点にも、場合によっては出かけて戦うことに、ひいては国内にも火の粉が飛んでくるという事態に、国民の皆さんは覚悟が出来ているのでしょうか。
圧倒的多数を占める自公政権は、今なんでも強行しようと思えばできるということに、今見てきた軍用機が本当に軍用に使われるのだということを重ね合わせて、立ちっぱなしからくるよりも大きな疲れを感じた日にもなりました。

夏山満開

2015年08月03日 | 日記

夏真っ盛り、2日は久しぶりに立山に、北日本観光の日帰りバスツアーで金沢から登山に出かけました。
麓の富山地方鉄道立山駅までは車で往復し、ケーブルカー、バスを乗り継いで室堂までがいつものコースなのですが、最近はバスツアーの便利さと手ごろなお値段に目覚めましたので、今回もそれを利用させてもらいました。
朝起きてお天気を見てからということができませんが、夏のこの時期、まず雨に降られることはなかろうと思って申し込んでおりましたが大正解でした。
多少の雲はありましたが、立山自体も、遠くの槍・穂高をはじめとした北ア南部の山々もくっきりと望むことができました。


夏休み中の8月前半の日曜日は、地元富山の中学生が学校単位で大挙立山を目指すと聞いておりましたし、北陸新幹線開業の影響もあって、雄山や大汝山には列をなすのではと思い、今回はお隣の室堂山、浄土山から竜王岳を縦走のつもりででかけました。雄山・大汝山は何回も登っていますし。
思った通り、主峰方面は結構な渋滞だったということで思惑どおりでしたが、わたくし自身の体力的な衰えはまったくの計算違いでした。あまりの好天で、撮りたいアングルが多くて撮影に時間がかかり過ぎたこともありますが、縦走はできずに、ただ室堂山展望台まで往復してきただけに終わりました。
それでも、青空の中、立山・剣、大日連邦、槍・穂高、薬師、黒部五郎や水晶岳と、バスツアーのサービスのお弁当をいただきながら眺めていると、山はやっぱりいいなーという月並みな感想が浮かびました。あの中のいくつかの山は、昔、登ったなー、今はもう無理かもなーという哀しい思いも頭をよぎりました。




ということで、今回は、日頃の不摂生を痛感させられた山行きともなってしまいました。
でもまー、一日たって、こうして撮ってきた写真を整理していますと、またすぐにでも行きたいという気持ちがふつふつと湧いてきています。
体を鍛えなおしてという前提がつくのは仕方がないところだとは自覚しておりますが、もうすこしまともな山登りに挑戦しなきゃとあらためて思っています。





秋常山古墳

2015年07月15日 | 日記
大分日が経ちましたが、5月の末に秋常山古墳に行ってきました。
石川県最大の河川・手取川が、山から平野に流れ出る扇状地の西側の山裾に沿って結構な数の古墳群があるのですが、その盟主的存在が秋常山古墳で、前方後円墳である1号墳は全長140mもあります。
北陸では最大級で、後円部の噴高は20m、墳頂の真下に埋葬施設が存在していることが確認されていますが、まだ未調査ということで、何が出てくるのか私なんかは興味深々です。なにしろ、周辺の古墳群からは鉄製の甲冑やら刀剣はじめいろんな武具や農具、馬具、鏡、埴輪などがすでに発掘されておりますからね。
4世紀後半ごろの築造と推定されているそうですが、当時にこんな大きな古墳を作れるほどの力をもっていた権力者が、あの能美市に存在していたなんて、ヤマト政権とのかかわりやなんかも考えると本当に興味が尽きません。能美市は、松井秀喜さんのみではなかったのですね。そういえば元総理の森喜朗さんも能美でしたね。
新国立競技場!あんなにお金をかけていいんですかね!あのデザインが東京招致の一因だったなんて、初めて聞ききましたよね。確か「お・も・て・な・し」と「お金をかけない」が売りだったはずですがね!

    前方部より見た後円部

存在は知っていましたが、家族で行くようなところとはちょっとイメージがずれておりましたので、訪れたのは初めてでした。誰一人おりませんでしたのでゆっくりと時間をかけて、隣接している巫女さんを葬っているらしい2号墳も含めて探訪させていただきました。

1号墳の後円部からの2号墳(方墳)                     2号墳上の埴輪

1号墳の後円部頂上からの眺めは、加賀平野とそこを流れる手取川、日本海が一望で、さすがにこのあたり一帯の支配者が眠っているにふさわしいところと思いましたが、残念なのは、古墳自体の全貌がわからない点です。これは日本一の大仙古墳(通称仁徳天皇陵)などでもいつも思うところですが、仕方がないですね。
全貌写真は公式ページより拝借しました。

金沢大学旧工学部校舎の取り壊し

2015年06月06日 | 日記
 妻が4月初めから5月末まで長女の所にいってましたので、その間炊事洗濯その他家事全般全て一人でやり、もちろん仕事もやっていますので忙しい毎日でした。
 普段はほとんど行かないスーパーにも、結構な頻度で食糧買い出しに行っておりましたが、そのスーパーのすぐ近くに2007年3月をもって移転した金沢大学工学部の跡地があります。
 その跡地に当時のままの状態でずっと放置されていた(ようにしか見えない)校舎が解体され始めていました。
 これは義弟に報告しなければと、いそいでカメラに収めました。義弟は、金大が金沢城内にあった時代に、世界でも貴重な城内にある大学ということにあこがれもあって金大に学び、今では日本法人のアメリカ支社の幹部としてアメリカに滞在中です。滞米生活は通算15年にもなります。
 城内からの移転にはずっと反対でした。あんな山の中に隔離されて、人間のいないところで狸相手に文系の連中は何を学ぶんだ・・・とよく言ってます。
 そしてついに、彼の学んだ工学部の校舎もなくなります。思い出の校舎の解体される画像を送ってやらなくてはと思っているのですが、余計なお世話でしょうかね 
 私も、街の真ん中にある金沢城に金沢大学があることを、教育を重視する町を標榜する金沢市民として誇らしく思っていましたから、角間なんていう山奥に移転することには大反対でした。「マムシに注意」なんて看板のたつ山の中に追いやっといて、学生に優しい街、どこが・・・という感じでした。


 しかし、1994年の城内からの移転後20年もたち、大学の去った金沢城がどんどん整備されて見どころ満載となるにつれ、お城ファンでもある私は「まぁーいいか・・・」と最近は思っています。
 それでも、移転先に開発された門前町に、進出しているほとんどが東京大阪などの県外大手資本ばかりで、門前町に金沢らしさのかけらもないことにはすごい違和感があります。
 といってもよく利用はするんですよね。何しろ便利ですからねー。
 古き良き日本はどこへいくんでしょうか・・・






女川といわれる浅ノ川と山側環状道路沿いの金大門前町
金沢大学は、写真奥の山のずっと左に連なったところの山間、街並から隔絶した所に存在します
写真ずっと右側、浅ノ川のずっと下流域が金沢の市街地
この写真の浅ノ川沿いと、川より左は、ここ15年くらいで忽然と現れた街です