さきほど、何件かの記事を読んで、ハッとさせられた。いかに自分が、男性差別、日本人差別などを扱っていくうちに自己の思想にどれほど不誠実になっていったかということを自覚することができた。
私が男性差別、日本人差別、遺伝子差別などを問題にするのは、誰もが等しく扱われなければならないという思い、要するに平等主義があるからである。しかし差別問題にとらわれすぎて、その解決を優先しすぎて、平等という本質を見失っていたような気がする。
平等という本質を見失い、差別問題の解決を逆差別思想に転化させて突き進もうとしていたような感じすらある。もっとも、私の平等主義は、実質的平等を是認するものだから、世間一般的に言えば「逆差別」に見える側面をもって、差別と相殺させることはあり得る(本質的な平等が理想だけれども)。
しかしそれが差別と相殺させる範囲を超えて、単なる「逆差別」と拡大させてはならない。それではとても全員が同じ状態とはいえないからだ。また、外国人労働者という強者と日本人労働者という弱者、そして労働者一般という基本的には弱者、こうした区別ができていなかったような気もする。
外国人労働者は日本人労働者との関係では明らかに強者であり、弱者である日本人労働者の権利を守るために、ある程度調整しなければならない存在である。しかしその一方で、彼らも労働者という意味ではまた弱者である。
また、外国人一般と侵略者の区別も曖昧になっていた。古代から近現代に至るまで、アメリカや中国、朝鮮あたりはたしかに侵略者であり、日本との関係における強者である。しかし日本にいる外国人一般が侵略者かというと、決してそんなことはない。
一方、日本政府はヘイト法により外国人一般を権力的に強者にしてしまっているので、ヘイト法という視点では明らかに、外国人は強者である。それは外国人労働者が強者である理由と同じである。
同じ強者でも、外国人一般とアメリカ・中国・朝鮮では、度合いが異なる。度合いが異なるといっても、外国人一般がアメリカ・中国・朝鮮に対して弱者かというと、そういうわけでもない。両者は完全に別次元の存在である。
そしてその間にいて、両方の影響を受ける最弱者が日本人である。
ちょっと話が拡大しすぎたが、ともかく私は根本的には全員があらゆる面で同じ扱いを受けるべきという思いを捨てずにやっていきたいと思う。
追記 平等主義を本気で再興するために、小4の頃に存在した「区別は差別の言い訳」という究極の平等理論を復活させよう。もちろん基本的には心の中だけだけど。ここに書くのは忘れないため。
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