今の公民教科書には、家族論も、国家論も、国際社会が競争社会であることも、何も書かれていない。
●現在の考え方
現在は、家族については、他の記事で書いたように「家族は、男女の愛と尊敬から始まる集団の中で最も小さな共同体(きょうどうたい)であり、団らんの中で安らぎを得るなど、いこいの場としての性格を有するとともに、子を生み、愛情や道徳を教えながら育てるなど、人間形成の場としての性格を有し、ともに生活することで、信じ合い、助け合いながら家族の絆(きずな)を深め、祖父母から父母、父母から子という縦のつながりをもつ唯一の集団」という考えを持っている。
国家については、他の記事でも書いたが、その役割については「対外的には、軍事力を使用した防衛(ぼうえい)により、その独立を保ち、対内的には、国内の秩序(ちつじょ)を維持し、国民の安全を守るとともに、インフラの整備や教育など公共事業(こうきょうじぎょう)への投資(とうし)により、国民の生活の向上を図り、国民の自由と権利を守ること」だと考えている。
国家についてもう少し掘り下げると、
国家には、決まった範囲の領土があって、その周りに領海を持ち、それらの上に領空を持つ。これが国家の領域(りょういき)である。国家を運営するには、人が必要である。これが国民(こくみん)である。
国家が、領域や国民を支配する権利を、統治権(とうちけん)といい、これが対外的に独立し、どの国の干渉も受けないようになると、主権(しゅけん)となり、主権を持つ主権国家(独立国)となる。この主権、領域、国民を国家の三要素と呼ぶ。領域や国民がなければ、国家が成立しないのは分かるだろう。では、主権はどうだろうか。
主権を持たない国家は、どこかの国に属するか、傀儡国家になるしか、選択肢がない、このような場合、当然、現地住民の意思や利益が尊重されるわけがなく、現代の国家は、この主権を持ち、かつ独立し、主権と独立を守ることが重要である。
一番最初に言った防衛は、この主権と独立を守り、かつ国民の安全と生活を守るために行われる。このような背景から、国際法は国の自衛権を保障している。
国内の秩序の維持はどうだろうか。国内の秩序が乱れていて、仮に、他人を殺したり、傷つけたりするような人が居た場合、国民の安全が保たれているとはいえない。国民は、国家の構成員であるから、国民の安全が保たれていないとなると、国家の存立も危うくなるだろう。
一般的な外国の侵略に対する防衛を、対外的な防衛と位置付けるなら、国内の秩序の維持は、国家の存立や国民の安全を守るという共通の目的が存在する以上、対内的な防衛といえよう。
公共事業への投資はどうだろうか。公共事業とは、インフラの整備や、教育、福祉など、国家全般の事業である。道路がなければ、国民は移動することができない。通信ケーブルがなければ、国民はインターネットを利用することができない、教育がなければ、国民は、生活をより豊かにするために勉強することができない。福祉がなければ、国民は自力で生活するしかなく、会社で失敗するなどすれば、事実上死である。
公共事業への投資は、国民の生活の向上を図るために重要なことなのである。
国民の自由と権利を守るというのはどうだろうか。これは、国民の参政権が登場した近代以降に取り入れられた国家の役割であるとの見方が強い。
言論の自由や、国民固有の参政権を保障するのも国家の大切な役割であるといえよう。国民主権の国家であれば、国民が参政権を持っていなかったり、国民以外が参政権を持っていれば、国民だけが「主権」を持つことができない。
同時に、国民の自由と権利の保障は、他の役割にもいえるのではないか。例えば、防衛では、国民の安全が守られていなければ、移動の自由や、幸福追求権などが侵害されているというほかない。
国内の秩序の維持という点でも、やはり移動の自由や幸福追求権との関係が密接といえる。
公共事業への投資という点でも、やはり幸福追求権が出てくる。
国家の役割は、ある程度、相互関係を持っているものといえよう。
国際社会については、国益同士が対立する競争社会であり、国家は、常に生き残りをかけて戦っているという考え方である。
●昔の考え方
家族について言うと、実はほとんど意識したことがなかった。考え方は存在しない。
国家について言うと、小5~中1の時期は、対外主権を守ることの重要性や、防衛の役割ぐらいしか認識がなかった。
国際社会について言うと、小4の時点で、国益同士が対立し合う競争社会的な考え方を持っていた。(※「競争社会」と明確に意識していたわけではないが。)
また、この国際社会の考え方が影響し、国家論も知らず、歴史観で言えば強固な自虐史観に染まっていた小4時代にも、自衛戦力には完全に肯定だったし、憲法第9条はあり得ないという立場だった。
むしろ、今よりも核武装論を強く推し、自民党実質意味なし改憲案(自衛隊の明記)にはがゆさを感じて、「日本軍」の創設を強く望んでいた(9月4日追記、「国防軍は生ぬるい」という立場)。
当時、歴史観や、防衛以外の国家観では、同じ考え方を持っていた左翼の人たちが、防衛を否定するか、やや否定気味だったことに強い疑問を感じていた。
「国益同士が対立し合う競争社会」という国際社会の考え方が影響したのか、自虐史観についても、「植民地支配したことを謝罪しよう」的な態度はとらず、あくまで第二次世界大戦等をめぐる問題は政府が戦争を開始した責任に関する国内問題と考えていた。
「東南アジアに対する侵略」や数々の日本軍の「蛮行」等も、第二次世界大戦を調べていく過程で、一応なんとなく知ってはいたが、あくまで日本軍の倫理観の問題であり、別に国家として、あるいは日本軍の兵士が、東南アジア諸国に謝罪する必要性など微塵もないと考えていた。
この考え方は、国際社会が競争社会であると捉えていたほかに、先祖のした行為を末代まで謝罪し続ける道理はないという意識も背景にあると思われる。
自虐史観に染まっていた点を除けば、現在でも、この考え方を維持したいと思っている。しかし、最近では、特に核武装論や日本軍創設などが弱くなっている。
「植民地」問題についても、その支配の実態が植民地支配とはいえないという史実に執着しすぎたあまり、「植民地」について謝罪するべきではないと考え方を失いかけていた。(最近、国家論や国際法に対する感覚の構築とともに、戻ってきた。)
東南アジア等に関する謝罪問題についても、「侵略」ではないことや、「蛮行」が捏造であることの指摘に執着し過ぎ、根本的に解決済みないし謝罪の必要性がないという事実を忘れかけていた(忘れかけていたせいで、余計に「侵略」ではないことや、「蛮行」が捏造であることの指摘に執着するようになった)。
国家及び国際社会に対する正しい認識をもって、公民教科書問題、歴史教科書問題、歴史問題などを考えていきたいと思う。
この記事は、完全に自分のまとめ的な、メモ的なものなので、拡散等は不要です。
9月4日追記 不思議なのが、当時、国家権力を悪と捉え、警察権力を悪の存在としておきながら、軍隊については良いものとした点である。正義の軍隊、悪の警察という考え方があったのである。今もそうであるが、全く納得していない。政治権力の必要性まで認識するようになっても、やはり警察権力だけは肯定できない。逆に軍隊による治安維持には肯定的である。警察組織に対する強力な不信感がこの考えを生み出したと思われる。
いろいろ考えていくうちに、自身は左翼ではないかと考えるようになったのである。小山常実氏は左翼を「人工主義、平等主義、愛国主義、武力重視主義」と定義している。現状、自身は全て当てはまっている。
また、小山常実氏は「ほとんどの左翼は、国家の本質を軍隊と警察という「暴力装置」の中に見いだし、もっぱらそれらに支えられた権力中心に歴史を理解しようとする。したがって、左翼は、権威と権力の分離という事が理解できないし、そもそも権威自体を理解できない。」とも言っていた。
これもおそらく事実である。実際、小6~中1にかけての保守思想を取り入れる段階で「権威と権力の分離」や「天皇の権威」の部分でつまづいた経緯がある。
「おそらく」となるのは、「権威」の定義が人によって違うためである。今のところ、権威とは、原則として何も言わない権力者であると理解している。そして、緊急時には、そのしまっておいた権力を直接行使するものであると考える。
天皇の権威とは、天皇は平時には一切の権力を行使せず、もっぱら政治権力の承認と法令の公布などの儀礼を行うだけである。しかし、歴史を見ても緊急時には「天皇親政」といった形で権力を直接に行使した時代もあったので、緊急時には権力を行使できると考える。
しかし、国民主権(民主主義)までもを権威と捉える見方もある。これを合わせると、納得がいかない。国民の選挙権は、権威ではなく、間違いなく「権力」である。選挙権だけでなく、請願権も国民が政府に要求する「権力」である。ただし、請願権の方には「権力」といっても、力の行使による強制力(刑罰や地域の排除など)がないので「権威」とみなすこともできるかもしれない。
ちなみに、私は天皇・国民共同主権論者であり、天皇は権威としての主権者であり、国民は権力としての主権者であると考えている。天皇の権威(権力?)とは、政治権力の承認(大臣の任命)と政治権力の行使の承認(法令の裁可)である。国民の権力とは、政治権力の代表者の選択と罷免(選挙)並びに代表者への命令(請願)である。
だいぶ分離できたような気がするが、天皇の方も権力と感じるのは気のせいだろうか。しかし、天皇の政治権力(および政治権力の行使)の承認には、強制力がないから、実質的に無意味だともいえる(儀礼的・慣習的な意味は除いて)。
だとすれば、天皇は主権者ではなくなるし、日本の国体は解体されることになるから、天皇の行為に強制力をもたせるべきではないか。昔、つくったことのある皇室法でも作って、「政府は、天皇の行為に従わなければならない。天皇の行為に従わない国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、罷免する。」と規定すべきか。
いや、そんなことをすれば天皇独裁になってしまう。しかし、よくよく考えると、天皇の行為に「輔弼」が必要とした帝国憲法も、国体に反しているような気がしてしまう。やはり天皇に主権などなく、ただの儀礼的・慣習的な行事のみを行うものなのだろうか。
ちょっと思いついた。
天皇の権力を一体化せずに、天皇の権力行為と形式行為に分離すれば良いのだ。そして、国民の権力との担当表は次のようになる。
●立法
国民
・議員を選定・罷免
天皇
・法律を裁可
●行政
国民
・実際政治の評価
天皇
・大臣を任命
●司法
国民
・裁判官を任命
天皇
・司法権の行使を裁可
このように考えると、行政以外は、国民が、任命権を持ち、天皇が、実際行為の裁可権を持つといえる。行政はその逆である。これら以外の儀礼的・慣習的にすぎない行為のみが輔弼(現行憲法では「助言と承認」)を要するのであると考えられる。
なんだか保守らしくなってきた感じだ。