「江」がドラマとしておかしい点 2011/11/10 0:27 [ No.3725 / 3732 ]
投稿者 :
goinkyo_sinsan_kinsan_mukodono
このドラマは一言で言うと「言う事とやる事が一致しない人たちの言いわけの繰り返し」になります。
結果として戦を防げず、人によって自害を選んだ戦国の武将や姫を、現代の反戦主義者に脚色したため脚本が破綻しています。
小豆の袋やドクロの杯の噂の否定、本能寺でナギナタを持った濃姫の場面がないのはは新説の採用でしょう。
お市(鈴木保奈美)は「女の戦は生きる事」と言いながら柴田勝家との自害を選び「私は前の戦で死んでいたも同然」などと言っていました。
次に信長の小姓がせっかく浅井長政を「ご立派な最後であったと聞いています」と敬意を示したのに、茶々(宮沢りえ)は「戦で死ぬのに立派も名誉もありません」と不機嫌な回答。ここで反戦主義の女は戦国の武士道も理解できないかと思えましたが、それが田渕久美子さんにとっては格好いい女性なんでしょう。
その茶々が大坂城(のそばの蔵)で自害とは大矛盾です。もちろん脚本家もそれを意識したか、初や江から「戦の嫌いな姉上がなぜ」と突っ込まれていました。
何か沖縄基地問題などで公約を守れなかった日本の政府の言いわけに似ていますね。無能な人間の公約違反の言い逃れのドラマです。
当然ならが「女の戦は生きること」「戦で死ぬのは立派でない」は田淵久美子さん(または協力者の兄上?)の脚色でしょう。本当の市も茶々もそんな思想は持っていなかったはず。
それで今度は江姫(上野樹里)の問題。
信長から小姓たちにとって浅井も仇であったことを聞かされ、戦のたびに誰が仇と言っていては切りがないと言われたのはいいとして、その江がお福から豊臣への恨みを言われて言い返せないのか呆れます。脚本家は健忘症でしょうかね?
茶々も自分も秀吉を親の仇と憎んでいたこと、細川玉子と親交があったことなど、江が福に言うべきことは山ほどありそうなのに、あの前半の恋愛ドラマは話数の無駄遣いで終わりそうです。
江は明智光秀が起こした本能寺の変のせいで命からがら伊賀越えをする羽目になり、明智光秀と対面。戦のない世の中にしてほしいと頼んだわけで、江はそのことも福に言えばいいし、秀吉の最後の床で並べた恨みの台詞を福にも言えば、豊臣を恨む福は少しは江に心を開いたんじゃないですかね。
それから秀忠もおかしい。妻と義理の姉に「私に任せてほしい」と何度も言って寸前まで淀と秀頼を助けようとしておきながら、高台院から「天下を泰平にするために避けられぬ戦がある」と言われただけで何の説明もなく攻撃命令。
関が原で遅参したときは家康に向かって「戦などまっぴら御免」などと叫んでいたくせに。
これは「水戸黄門」でも同じです。
あのドラマの水戸光圀は庶民の味方を標榜して、武士も町人も同じ人間であるという平等思想のような台詞を言っていますが、やっていることは葵の紋所で押さえつけるだけ。
光圀は生類憐みの令を廃止することも、柳沢吉保を追放することもできなかったわけでそんな人に庶民の英雄としての虚像をかぶせている時代劇は明らかに矛盾しています。
あと近代ドラマで太平洋戦争(大東亜戦争)中の日本人がまるで戦後の平和主義を先取りしたような反戦思想を述べているのを見ると、逆にそんな事を当時から言いながら戦争を防げなかった人物が無能に見えます。
これは
メッセージ 3722 ladyjaja_desu さんに対する返信です
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Re: 愚者豹変す 2011/11/10 0:53 [ No.3726 / 3732 ]
投稿者 : goinkyo_sinsan_kinsan_mukodono
3725で「江」がドラマとしておかしい点を投稿しました。
このドラマは「戦は嫌だ」などと戦後民主主義を先取りしたようなことを言いながら、結局は歴史上「なかったこと」にできない関ヶ原や大坂夏の陣の戦をやってしまう戦国時代人の人格破綻のドラマです。
戦国時代の人を「乱世を生き抜いた強い人たち」でなく「戦国時代に戦を怖がり、嫌がりながら、止められなかった無能な平和主義者」にしてしまった作品で、これは「江」に留まらないかも知れません。
あれは「戦国自衛隊」や「仁」のようなタイムスリップ時代劇にした方がリアルだったのです。現代からタイムスリップした女の子や男(青年)が「戦は嫌です」「自害はやめてください」と言いまくり、それでも夏の陣で淀が自害するとか。
それからよく言われる娯楽時代劇と歴史劇(歴史ドラマ)の区別は無意味です。
NHK大河ドラマだから史実に忠実でないといけない理由はないと思います。
外国で紹介されれば「水戸黄門」も「篤姫」も「影の軍団」も「ラストサムライ」も「たそがれ清兵衛」も「武士の一分」も「龍馬伝」も同じですから。
中国や朝鮮の王朝ドラマが「娯楽時代劇」か「大河ドラマ」か分類するのはナンセンスです。
それに「いのち」のような現代大河が「時代劇」でなく「歴史劇」なら「いのち」は史実に近いのでしょうか?主な登場人物は架空です。
そんなわけで大河ドラマを「史実と違う」と批判するなら「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような時代劇は史実と違って当然で、大河も全く同じだと思えばいいわけです。問題は別にあるわけです。
むしろ大河ドラマに対しては「史実」「史実」と騒ぐのでなく「戦国自衛隊」と同じ娯楽時代劇としての見方をすべきで、逆に「水戸黄門」や「遠山の金さん」も実在の人物を主人公にした歴史ドラマとして見るよう、バランスをとるべきだと思います。
だから大河ドラマが歴史ドラマなら、「水戸黄門」も史実を脚色した歴史ドラマであって、そう見れば「水戸黄門」の42年での終了は当然です。
史実を無視した「水戸黄門漫遊記」の「副将軍」の虚構が歴史ドラマとして受け入れられなくなった証しでしょうし、シリーズ全体で設定が矛盾して破綻しています。
民放時代劇も江戸時代の将軍、藩主、奉行を「庶民の味方」に脚色した話からしておかしいわけです。
戦を嫌がる女性を描くなら初めから戦国の姫など題材にしなければいいのです。
それから大河ドラマを含めた時代劇が江戸・戦国時代を描いて史実からどれだけかけ離れようと、社会には何の害ももたらしません。江姫が伊賀越えするのは水戸黄門が伊勢参りするのと全く同じでドラマのフィクションです。
江が炭売りに変装して千利休の茶室に入る辺り、「水戸黄門」に出てくるお姫様のお忍びに似てきたなと思えたものです。
もし「水戸黄門」が社会に対して有害であったとしたら「史実との相違性」とは関係ない別の問題です。それが何かは時代劇をよく見ている方ならおわかかり頂けると思います。
これは
メッセージ 3688 ei_yasu さんに対する返信です
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