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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

専心

2007-12-22 08:55:10 | 
昨夜は畏敬する大先達、堤先生の講演があって、そのあと居酒屋で長話。
あこがれと畏れ多さで実は今まで親しくお話する機会を逃していたので、本当にありがたい時間でした。

堤さんは大病をされて、入院中に大きな本をまとめられたという話。
「必死」ということ。
「何事かをなすにはあまりに短い」残りの人生で百年後に残る仕事をすること。

文字通り、真剣で勝負しなきゃね、と。

砕けた俗な話も交えながら、しかし、根本のところで、学問と言うことを本気で生きていらっしゃる姿に勇気づけられ、親しくお話しさせていただく機会を作って下さった古郡先生にも感謝。


大学の教師はやりたくもない仕事を沢山させられていて、忙しくて……。
愚痴ならいくらも並べられるけれど、過労死や仕事が原因の自殺なんて聞いた事がない。
命賭けてないもんね。


お茶の話。
白雲さんはすべての生活の中で、その一瞬一瞬を生ききる、という事を説かれた。
道具の一つ一つ、その動き一つ一つに専心して、ほかに心を移さない事。
日常生活の中でもそうやって生きていくことが、自他の境界を無化し、それぞれの本質のあるべき姿をそのままに体現する事にもなる。

禅であり、原始仏教であるところの本質論が、暮らしと直接結びつくところに茶道はあったはずなのだ。

名物道具を出す事、それを賞翫する事が是なのではなく、主客の間で、あるべき道具がある事。
作法があるのではなく、必然としての適材適所があること。

身体という問題も、多分そこに行き着く。


さる集まりで、学生の敬語遣いの誤りを指摘したら「わかってたんですけど」という応え。
きみ、それは解っているとは言わないのだよ。

知識として知っている事と解っている事、は違う。
「身につく」ということ。

本を読んで、ネットで見つけて、頭で解った気になっているいる事は、自然な振る舞いの中には現れてこない。
身体のすみずみがそれを受け入れるためには、我々はあまりに多くの夾雑物を摂取しすぎている。

教育に何が出来るのか、私にはよくわからない。
心は学ぶ事が出来るものかどうか。

ヒントは禅の中にあると思っている。



さて、書きかけがまた増えてしまった。
移動中に書くかなぁ。

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