ちょっと怠けている内に、彦星先生もスノドの主も、この企画についてコメントしている。
オルタナティブスペース・スノドカフェ ~学びの企画~ Knowledge walk Friday vol.1(仮)2/13
時間が経つと考えは深まるかも知れないけれど、最初の印象からは遠ざかっていく。
記憶も現実の「模倣」であるし、その再現は言わずもがな。
情報発信的な、或いは「双方向的な」授業や対話の中では、まとまりのある議論を期待できるが、カフェのような空間での「談論風発」は、方向性を持たずに拡散することそのものを愉しんだ方が良い。
講師もテーマも忘れて、内面の観察に没入した人の“勝ち”だ。
そういう意味で、kanagonさんのブログは、こういう企画の意義や効果がはっきり現れていると思う。
以下、私も、kanagonさんに負けずに、ずれまくります。
で、結局まとまらないですよ、と最初に言っておきます。
この日の議論の中で、私の興味を惹いたのは、大きく二つ。ん、三つかな。
一つは、「素晴らしい自然の模倣」という、出発点の話。
今ひとつは、日本の芸術における「型」や「うつし」との関係。
問題にすべきなのは、例えば連句の構造が、どうしてそのような物になっていったのか、複式夢幻能は、何故そのような形をしているのか、と言う、そもそもの本質に戻ることなのではなかろうか。物語の形式は、特殊な能力を持った個人が一人で創り出してしまった物ではない。人間の長い歴史(或いは歴史以前から)の中で、世界や人生について思索し続けられ、解釈されたその現れとして存在しているのである。そこには、文化を越えた人間に普遍的な型が存在している。「文化」によって様々に装飾され、今は見えにくくなっているそれらの本質は、しかし、すぐれた文学作品と言われる物の中に、いつでも隠れている。オリジナリティこそが作品の価値であるような小説の場合でさえ、こうした形式の呪縛から抜けられないと言うことも、蓮見重彦『小説から遠く離れて』によって既に論破されている。むしろ、本質を見抜く力を持つからこそ、普遍的な型が作品に入り込んでしまうのかも知れない。
この文章は、『おくのほそ道』と言う作品が、どのような型を模倣したか、と言う議論に対して、私の考えを述べた部分です(「物語としての『おくのほそ道』」『文学』8-1(07.1))。
誰がどのように受け止めるかはそれぞれなのだけれど、13日の講義と、その後のやりとりの中で、私がまず思い出したのは、このこと。
それから
むかしの人は、たゞ見るまさめのまゝを打出たるものなれば、人よみたりともしらずよみになんよみしかど……
という、『春雨物語』「歌のほまれ」。
シャルル・バトゥーと言う人の「素晴らしい自然の模倣」と、ネガティブな意味での模倣、と言う問題。
意外なことに(どっちを「意外」だと思うのかも判らないが)、本歌取りを尊ぶ和歌や俳諧の世界で、発想が共通している作例は剽窃か否かに関係なく排除される。
しかし、……。
『おくのほそ道』には、ある“型”を想定できる。
研究者達は、その型が先行する文芸や思想のどれであるかを突き止めようとして困難に陥っている。
私は、それらの、先行する型は、どこから来たのかと言うことを同時に考えたら答えを得やすいのではないかと考えた。
「茶の世界」で、吉野さんから学ぶ利休時代の茶のこと。
ここにはおそらく“型”はない。
初代団十郎にも、“型”はないんじゃないか。
遡って、世阿弥は「型」を重んじただろうか。
彼ら、先駆けの一人が追い求めたのは、“自然”であり“真実”だったのかも知れない。
それを、継承し、他と差異化する必要が生まれた時“型”が意識化されることになる。
そして、「型から入る」“稽古”によって本質を獲得できると言う逆転が起きる。
“型”は、先にあったわけではない。
しかし、“自然”の中に、それは、ある。たぶん。
あぁ、私は“定理”の話をしようとしているのか?
もどそう。
「型」や「流派」の話をするなら兵藤裕己の「八坂流の発生」(『平家物語の歴史と芸能』吉川弘文館 2000)は外せない。
もう一つ別の議論。
表象と本質は、どっちが先なのか。
占いやまじないについて昔書いた文章も引いておこう。
目に見えるものも、見えないものも、すべての事柄を分類整理し、記述すること、そのことによってのみ、我々の世界は認識され、存在が保証される。手にとって確認できるものは簡単にそれができるが、そうでないもの、抽象的・神秘的な領域にも、同じ方法が可能なことは、天体の運行が予測できるのだから当然である。こうして、例えば、人間の個性という一つの差異と、手のひらの複雑な差異とを恣意的に結びつけてしまう。否、現在の科学では証明できないが、統計的にはそのような結果が出るのかも知れず、強ち恣意的とばかりは言えまい。いずれにしても、人間に生得的に備わった、目に見え、明らかに示せる差異と、抽象的・神秘的差異とを結びつけることで、分類不可能だったものを定位することができるようになったのである。
かくして、表象を読み解くことで本質を発見するのではなく、表象こそが本質を規定してしまう事態に至る。本質は、分類によって、明らかになるのではなく、発生するのである。ここまでくればまじないの有効性も期待できることになる。
「神は自らの姿にまねて人間を作った」と言うのが、そもそも真似る物と真似られる物との逆説。
神と人、どちらが作者でどちらが作品なのか。
八文字屋本の話に飛ぶことも出来るだろう。
「ずれ・ぶれ」の話は、私にはそれほどうまく受け止めきれなかった。
意図的なずらしや、無意識の限界の話ならつまらない。
身体論や言語論への架橋が成り立ちかかったところではずされてしまった感がある。
途中で、あ、これ市川浩じゃん、って思ったんだけどねぇ。
作家の自意識という問題は、これはこれで面白くもある。
私が文学史を担当すると、まず説明するのは、やはり「模倣」のことなのだけれど。
“型通り”の話に戻る?
書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ 『遍照発揮性霊集』巻第三。
ほんとにまとまらない。
なにはともあれ、スノドカフェは、“学び”を明確に新しい地平に持ってきたと思う。
その場に居合わせたことを悦ばしく思っている。
あぁ、誰かがみんなに向かって話をしている時に隣の人だけに話すのはやめて欲しいなぁ。
みんながみんなに向かって言い合うなら全く問題ないのだけれどね。
そういう空気が整ってきたら無敵。
“教科書”もばっちりでした。
拍手!
オルタナティブスペース・スノドカフェ ~学びの企画~ Knowledge walk Friday vol.1(仮)2/13
時間が経つと考えは深まるかも知れないけれど、最初の印象からは遠ざかっていく。
記憶も現実の「模倣」であるし、その再現は言わずもがな。
情報発信的な、或いは「双方向的な」授業や対話の中では、まとまりのある議論を期待できるが、カフェのような空間での「談論風発」は、方向性を持たずに拡散することそのものを愉しんだ方が良い。
講師もテーマも忘れて、内面の観察に没入した人の“勝ち”だ。
そういう意味で、kanagonさんのブログは、こういう企画の意義や効果がはっきり現れていると思う。
以下、私も、kanagonさんに負けずに、ずれまくります。
で、結局まとまらないですよ、と最初に言っておきます。
この日の議論の中で、私の興味を惹いたのは、大きく二つ。ん、三つかな。
一つは、「素晴らしい自然の模倣」という、出発点の話。
今ひとつは、日本の芸術における「型」や「うつし」との関係。
問題にすべきなのは、例えば連句の構造が、どうしてそのような物になっていったのか、複式夢幻能は、何故そのような形をしているのか、と言う、そもそもの本質に戻ることなのではなかろうか。物語の形式は、特殊な能力を持った個人が一人で創り出してしまった物ではない。人間の長い歴史(或いは歴史以前から)の中で、世界や人生について思索し続けられ、解釈されたその現れとして存在しているのである。そこには、文化を越えた人間に普遍的な型が存在している。「文化」によって様々に装飾され、今は見えにくくなっているそれらの本質は、しかし、すぐれた文学作品と言われる物の中に、いつでも隠れている。オリジナリティこそが作品の価値であるような小説の場合でさえ、こうした形式の呪縛から抜けられないと言うことも、蓮見重彦『小説から遠く離れて』によって既に論破されている。むしろ、本質を見抜く力を持つからこそ、普遍的な型が作品に入り込んでしまうのかも知れない。
この文章は、『おくのほそ道』と言う作品が、どのような型を模倣したか、と言う議論に対して、私の考えを述べた部分です(「物語としての『おくのほそ道』」『文学』8-1(07.1))。
誰がどのように受け止めるかはそれぞれなのだけれど、13日の講義と、その後のやりとりの中で、私がまず思い出したのは、このこと。
それから
むかしの人は、たゞ見るまさめのまゝを打出たるものなれば、人よみたりともしらずよみになんよみしかど……
という、『春雨物語』「歌のほまれ」。
シャルル・バトゥーと言う人の「素晴らしい自然の模倣」と、ネガティブな意味での模倣、と言う問題。
意外なことに(どっちを「意外」だと思うのかも判らないが)、本歌取りを尊ぶ和歌や俳諧の世界で、発想が共通している作例は剽窃か否かに関係なく排除される。
しかし、……。
『おくのほそ道』には、ある“型”を想定できる。
研究者達は、その型が先行する文芸や思想のどれであるかを突き止めようとして困難に陥っている。
私は、それらの、先行する型は、どこから来たのかと言うことを同時に考えたら答えを得やすいのではないかと考えた。
「茶の世界」で、吉野さんから学ぶ利休時代の茶のこと。
ここにはおそらく“型”はない。
初代団十郎にも、“型”はないんじゃないか。
遡って、世阿弥は「型」を重んじただろうか。
彼ら、先駆けの一人が追い求めたのは、“自然”であり“真実”だったのかも知れない。
それを、継承し、他と差異化する必要が生まれた時“型”が意識化されることになる。
そして、「型から入る」“稽古”によって本質を獲得できると言う逆転が起きる。
“型”は、先にあったわけではない。
しかし、“自然”の中に、それは、ある。たぶん。
あぁ、私は“定理”の話をしようとしているのか?
もどそう。
「型」や「流派」の話をするなら兵藤裕己の「八坂流の発生」(『平家物語の歴史と芸能』吉川弘文館 2000)は外せない。
もう一つ別の議論。
表象と本質は、どっちが先なのか。
占いやまじないについて昔書いた文章も引いておこう。
目に見えるものも、見えないものも、すべての事柄を分類整理し、記述すること、そのことによってのみ、我々の世界は認識され、存在が保証される。手にとって確認できるものは簡単にそれができるが、そうでないもの、抽象的・神秘的な領域にも、同じ方法が可能なことは、天体の運行が予測できるのだから当然である。こうして、例えば、人間の個性という一つの差異と、手のひらの複雑な差異とを恣意的に結びつけてしまう。否、現在の科学では証明できないが、統計的にはそのような結果が出るのかも知れず、強ち恣意的とばかりは言えまい。いずれにしても、人間に生得的に備わった、目に見え、明らかに示せる差異と、抽象的・神秘的差異とを結びつけることで、分類不可能だったものを定位することができるようになったのである。
かくして、表象を読み解くことで本質を発見するのではなく、表象こそが本質を規定してしまう事態に至る。本質は、分類によって、明らかになるのではなく、発生するのである。ここまでくればまじないの有効性も期待できることになる。
「神は自らの姿にまねて人間を作った」と言うのが、そもそも真似る物と真似られる物との逆説。
神と人、どちらが作者でどちらが作品なのか。
八文字屋本の話に飛ぶことも出来るだろう。
「ずれ・ぶれ」の話は、私にはそれほどうまく受け止めきれなかった。
意図的なずらしや、無意識の限界の話ならつまらない。
身体論や言語論への架橋が成り立ちかかったところではずされてしまった感がある。
途中で、あ、これ市川浩じゃん、って思ったんだけどねぇ。
作家の自意識という問題は、これはこれで面白くもある。
私が文学史を担当すると、まず説明するのは、やはり「模倣」のことなのだけれど。
“型通り”の話に戻る?
書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ 『遍照発揮性霊集』巻第三。
ほんとにまとまらない。
なにはともあれ、スノドカフェは、“学び”を明確に新しい地平に持ってきたと思う。
その場に居合わせたことを悦ばしく思っている。
あぁ、誰かがみんなに向かって話をしている時に隣の人だけに話すのはやめて欲しいなぁ。
みんながみんなに向かって言い合うなら全く問題ないのだけれどね。
そういう空気が整ってきたら無敵。
“教科書”もばっちりでした。
拍手!
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