「現場で」と「現場と」の隔たり。
友成真一の『「現場」でつながる!地域と大学』は、アッパレ会立ち上げの時に、私が中心的な人たちに読んで頂いた参考書の一つなのだけれど、本が出た頃たまたま聴いたNHKラジオのインタビューのもうかなり終わりの方で、アナウンサー氏は「現場と」と言ったのを、今でも記憶している。友成氏、多分がっかりだっただろうな、と。
「事件は現場で起きてるんだ!」という叫びは、ジャーナリストにも、研究・教育者にも、常に投げかけられる課題なんだと思う(それにしても、記者クラブは、ナントカならんのか)。
私のように、江戸時代の文献を主な研究対象にしている実にとって、「現場」という「空間」がどこなのか、と問われるとなかなか答えにくいのだけれど、少なくとも、その書物達は生きて目の前にある。
何でこんな事を書く気になったか、と言うと、明け方、さる若いガンバリ屋さん宛のメールに、「あなたの手法には啓蒙臭がある、私は現場主義だ」てな事を書いてしまい、ちょっと補足が必要かな、と思ったので。批判する気はないのです。勿論。そして、その人が「現場」に身を置いて頑張っていることも承知だからこそ。
フィールドワーカーと現場との関わり方というのは、大きく二種類ある。
一つは、他者として対象を突き放し、冷静に記述し、分析する方法。もう一つは対象の中にとけ込んで、可能な限り、その「文化」その物の空気を語る方法。これらの方法論は、ニュージャーナリズム論や、人類学者達のフィールドノート論の中で真摯に検討されてきたのだけれど、最近は、猫も杓子も“フィールドワーク”に手を出して、なんだかアカデミズムの暴力装置を一つ増やしてしまったように見える。実際、友成ゼミにも、同様の問題点があって、地域との摩擦が存在するらしい。
私自身、地域との関わりは、研究対象としてではない。今は、様々な形で地域と仕事をすることがあるけれど、ネットワークが形成されてきた過程は、そういう実用的、あるいは功利的な目的ではない。基本、楽しい仲間を殖やしたい、と言うことであり、仲間に入れて頂く、と言うことでしかない。
そういう中で、何かが立ち上がる現場にいることがあるし、行動を共にすることもある。
だから、それらは、他者としてそこにある“対象”ではあり得ない。
そのことによって見えにくくなることは多いし、“啓蒙”など論外。ただ、一緒に考え、話し合い、よりよくしていくだけのこと、なのだよね。
「現場の人たち」を分析して、あなた方はこうなんです、こうしたら、等と偉そうに言うのは、少なくとも私のキャラではない。学者的心性として、分析したくなるのは確かだけれども。
例えばダンスに関しては、他者として向き合うしかない。ただ、それでも、踊る身体を、こちら側の土俵にのぼらせて「踊らせる」暴力を、私はしようと思わない。
確かに効率は悪い。しかし、目指しているのは、多分、研究の発展でも、大学の地域「貢献」でも何でもなく、私の幸せなので。
++++++++++++++
歯切れが悪いな。
ちゃんと言いましょう。
批判です。
アカデミズムだけじゃない。
啓蒙家の暴力。
私はそれを嫌う。
「解っている」人には何も見えない、と言うことを、多分私は、直感的に識っているのだと思う。パラドクスみたいなんだけども。
歴史学者は民間伝承を超えて「正しい歴史」を指し示すことが出来るのか、と言う問題は、実は私の研究の根幹でもあり。
それはオリエンタリズム批判であり、「サバルタンは語ることが出来るか」という、巨大な命題に呼応するはずの問題でもあり。
理論を携えて現場に赴いても、その理論に適う物しか見えてこない。
啓蒙的視線は、啓かれるべき蒙いもの達とみなされた人々を射殺す。
そこから学ぶこと、さらにいえば、そこで共に成長すること無しに何物も成り立ち得ないのだと言うことを。
**********************
更に補足。
何か違う。
論点がずれた。
私にある思いこみ。印象。
時間のあるときもう一度。
友成真一の『「現場」でつながる!地域と大学』は、アッパレ会立ち上げの時に、私が中心的な人たちに読んで頂いた参考書の一つなのだけれど、本が出た頃たまたま聴いたNHKラジオのインタビューのもうかなり終わりの方で、アナウンサー氏は「現場と」と言ったのを、今でも記憶している。友成氏、多分がっかりだっただろうな、と。
「事件は現場で起きてるんだ!」という叫びは、ジャーナリストにも、研究・教育者にも、常に投げかけられる課題なんだと思う(それにしても、記者クラブは、ナントカならんのか)。
私のように、江戸時代の文献を主な研究対象にしている実にとって、「現場」という「空間」がどこなのか、と問われるとなかなか答えにくいのだけれど、少なくとも、その書物達は生きて目の前にある。
何でこんな事を書く気になったか、と言うと、明け方、さる若いガンバリ屋さん宛のメールに、「あなたの手法には啓蒙臭がある、私は現場主義だ」てな事を書いてしまい、ちょっと補足が必要かな、と思ったので。批判する気はないのです。勿論。そして、その人が「現場」に身を置いて頑張っていることも承知だからこそ。
フィールドワーカーと現場との関わり方というのは、大きく二種類ある。
一つは、他者として対象を突き放し、冷静に記述し、分析する方法。もう一つは対象の中にとけ込んで、可能な限り、その「文化」その物の空気を語る方法。これらの方法論は、ニュージャーナリズム論や、人類学者達のフィールドノート論の中で真摯に検討されてきたのだけれど、最近は、猫も杓子も“フィールドワーク”に手を出して、なんだかアカデミズムの暴力装置を一つ増やしてしまったように見える。実際、友成ゼミにも、同様の問題点があって、地域との摩擦が存在するらしい。
私自身、地域との関わりは、研究対象としてではない。今は、様々な形で地域と仕事をすることがあるけれど、ネットワークが形成されてきた過程は、そういう実用的、あるいは功利的な目的ではない。基本、楽しい仲間を殖やしたい、と言うことであり、仲間に入れて頂く、と言うことでしかない。
そういう中で、何かが立ち上がる現場にいることがあるし、行動を共にすることもある。
だから、それらは、他者としてそこにある“対象”ではあり得ない。
そのことによって見えにくくなることは多いし、“啓蒙”など論外。ただ、一緒に考え、話し合い、よりよくしていくだけのこと、なのだよね。
「現場の人たち」を分析して、あなた方はこうなんです、こうしたら、等と偉そうに言うのは、少なくとも私のキャラではない。学者的心性として、分析したくなるのは確かだけれども。
例えばダンスに関しては、他者として向き合うしかない。ただ、それでも、踊る身体を、こちら側の土俵にのぼらせて「踊らせる」暴力を、私はしようと思わない。
確かに効率は悪い。しかし、目指しているのは、多分、研究の発展でも、大学の地域「貢献」でも何でもなく、私の幸せなので。
++++++++++++++
歯切れが悪いな。
ちゃんと言いましょう。
批判です。
アカデミズムだけじゃない。
啓蒙家の暴力。
私はそれを嫌う。
「解っている」人には何も見えない、と言うことを、多分私は、直感的に識っているのだと思う。パラドクスみたいなんだけども。
歴史学者は民間伝承を超えて「正しい歴史」を指し示すことが出来るのか、と言う問題は、実は私の研究の根幹でもあり。
それはオリエンタリズム批判であり、「サバルタンは語ることが出来るか」という、巨大な命題に呼応するはずの問題でもあり。
理論を携えて現場に赴いても、その理論に適う物しか見えてこない。
啓蒙的視線は、啓かれるべき蒙いもの達とみなされた人々を射殺す。
そこから学ぶこと、さらにいえば、そこで共に成長すること無しに何物も成り立ち得ないのだと言うことを。
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更に補足。
何か違う。
論点がずれた。
私にある思いこみ。印象。
時間のあるときもう一度。
あたしたちには、むずかし~!!
って、あたし達は先生の授業を聞いたことも無いんです。実は、あたしたち某施設で受付してるものです★
いつも飲み会に誘ってくれてとってもうれし~んですけど、いけなくってごめんなさい!ってことでカキコしちゃいました。
一応、レイクの下まではいってみたんですよお。
また19日にお待ちしています。
改めて、呑みに行きましょう!!!!
http://blog.goo.ne.jp/koneeta/e/1b82dbca78c8470dd8405aa7882c9f5d
にある色んなイベントにもぜひお越しください!