ウトピア

真実と欲望が出会うところ

生きる意味とは

2012-12-07 23:21:20 | エッセイ
生きる意味を聞かれても、すぐに答えたり簡単に答えることはできない。
結論は常識的で、短くいえる。

即ち、「仕事をし、他人や自分を愛し、セックスし、家族を作り、家族を愛育し、人間関係を作り仲間と楽しく過ごし、創造的な活動、社会貢献を考える、そして生きる意味を追求する」

結論は常識的で当たり前の事であるように思われるが、しかし、これはその内容によっては自己の苦悩を深くしたり、自己の快楽や万能感を満たすための行動や、社会的に他者を搾取する、支配する、害する事にもつながる。

人間は全く正しく、公平であることはできず、仏にも夜叉にもなりうる。

したがって、この問題についても、日常的なことについても実は膨大な思索や言動、経験が必要となる。
ドイツの大哲学者カントは「三批判書」における晩年の結論として人間は何をなすべきかについて「無条件にキリスト教モラルに従う」ことをいう。これは結論からすれば、キリスト教社会では当たり前のことで、教会の牧師や神父が日常的に一般信者に述べていることと変わりはない。
しかし、カントの結論には彼の膨大な理性を働かせた思索がその背景にある。おのずと、この思索を考慮してその結論を見るものと、そうでない者との言動に大きな差が出てくる。
社会的に見ればそれは思想・信条の自由を認めるか認めないかの立場の違いまで行き着くだろう。

生きる意味を問うことは単に個人的な苦悩や疎外感の克服、空虚感の穴埋めにするものではない。個人個別の「生の限界」を考慮しても「人間は社会的動物」であることを忘れてはならないのであって、宗教や思想もその反映を免れない。

とはいえ、人は絶望する。社会的存在としても、「生の限界」にある存在としても。そこで、「未来の良き物語」が必要となる。これはあくまでも個人の内面において特別な部屋で信仰すべき事柄であって、「思想信条の自由」を奪う場合を除いて、社会化は避けねばならない。
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