ウトピア

真実と欲望が出会うところ

人殺しがしたかった女子大生

2015-01-30 00:47:32 | エッセイ
またぞろ、先祖がえりの人間が弱そうな、殺しやすそうな人間を殺す事件が発生して、マスメデイアに格好の仕事を与えている。
人間の殺人願望はどこかで現れてくる。昔から社会的に人殺しは様々な理由で行われた。個人的には怨恨や金、権力、権威、異性獲得などが通常のものだが、精神疾患としてのサイコパスや精神分析のものもある。文化的生物的社会的歴史的な諸事実から人間の殺人願望や習性を指摘することもできる。
生物学的に言えば他の動物に比較して霊長類は同種で殺し合いをする唯一の哺乳類と言えよう。チンパンジーは群れ同士で戦争して相手方を殺し、食べてしまう事もある。人間の歴史は戦争の歴史でもある。
戦場での殺し合いだけでなく、親しく付き合っていた同じ村人同士が二手に区別され一方が他方を拷問して虐殺した事件もある。また、先の大戦で、アメリカ軍捕虜を殺して食べてしまった日本軍人もいる。文化的には、生きた人間の胸を裂き心臓を取出し、神にささげ、それを食べる食人習慣も北米のアステカ文化に見られる。また、メキシコシティの歴史記念館にもなっている役所の壁画には、アステカ時代の市場の様子を描いたものがあるが、店の一つには店頭に人間の手足がつるされている。
人間を犠牲にして何か神に祈祷する習慣は広く見られる。マヤ文明などの乳児の生贄、日本では人柱の話、キリスト教国では悪魔信仰のうわさは絶えない。
こうしてみると人間はまず進化の過程で殺して食べる習慣を発展させ、これが同じ種である人間同士の戦いで他集団の人間を殺すことにそれほど違和感を与えない文明を作ってきたといえる。同じ集団での殺人は固く禁じられているが、人殺しの習慣は個人の心理的な快感を与える効果があることを犯罪心理学が示している。ただしこれは拷問をして殺すやり方によく現れている。過去の専制君主のこの種の例は珍しくもない。イワン雷帝やドラキュラのモデルになったトランシルバ王の事例。警察権力の拷問など。心理学実験の「囚人と看守」の実験は人が権力を持ったり、拷問が許されるといかに残酷になるかが確かめられている。
本来ならば、他生物を殺す行為は食物、異性獲得が出発点だったものが、権力権威という観念が伴ってきたため、観念操作が行われれば容易に殺人は発生することになる。自殺も殺人と考えると、このことはさらにわかりやすい。自殺は最も簡単にできる殺人でもある。日本社会も自殺の多い社会である。
若者の将来に対する希望、期待感の薄い社会であることは最近のアジア諸国の若者の意識調査でも表れている。日本が一番低いのである。これも死への刺激を求める背景になっている。
このような閉塞的なフインキだけでなく本人の資質や生育環境も殺人に向かいやすいものではないか。家庭環境は教育熱心で私立の高校を出て国立の名古屋大学に入ったとの情報から、観念操作や観念によって動く可能性が高いことが想像される。しかし、広い教養はなかったと推察される。
要は視野が狭い事であるのではないか。作家の故城山三郎氏が若き日、特攻隊に志願して海軍に入った。「勝利か死」しか頭になかったという。終戦、敗戦で日本が降伏したとき、ただ茫然としたという。彼はそこから、猛然と勉強、学習を始めた。自然科学以外の広い分野にわたって、読書だけでなくその種のサークル、団体に入って活動した。彼は大学の経済の教師になったが、小説もかきはじめ、またさまざまな人物の伝記みたいなものも書いた。
彼の猛烈な勉強学習と活動、日本ペンクラブ会長として言論の自由を制限する可能性のある法案に反対したのは、自分の青春時代の視野の狭さを反省したことにあるのは容易に想像がつこう。視野が狭ければ狭いほど容易に死ぬことも殺すことも(特攻は殺人でもある)疑問を持たなくなるのであるし、上記に書いたように本源的に人殺しには快感でもあることがこの行動を後押しする。
モラル、押し付けでないモラルの教育が社会になければ、個人個人が自律的にモラルを作らないと、この人間の本性の一つを抑えることは困難である。
なお、恐怖の統制というもの、徹底した洗脳でも可能だがこれは別の問題を生む。
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