『スープとイデオロギー』を観るために、十三の第七藝術劇場へ。
あらすじ紹介(公式サイトより。適宜改行)。
年老いた母が、娘のヨンヒにはじめて打ち明けた壮絶な体験 —
1948年、当時18歳の母は韓国現代史最大のタブーといわれる「済州4・3事件」の渦中にいた。
朝鮮総連の熱心な活動家だった両親は、「帰国事業」で3人の兄たちを北朝鮮へ送った。
父が他界したあとも、“地上の楽園”にいるはずの息子たちに借金をしてまで仕送りを続ける母を、ヨンヒは心の中で責めてきた。
心の奥底にしまっていた記憶を語った母は、アルツハイマー病を患う。
消えゆく記憶を掬いとろうと、ヨンヒは母を済州島に連れていくことを決意する。それは、本当の母を知る旅のはじまりだった。
でも上映時間、間違えちゃった。最初の5分間、見ることができなくてごめんね。
以下、画像はMOOVIE WAILKER PRESSより
https://moviewalker.jp/mv76749/gallery/4/
『ゆるキャン△』の次に観る映画が、『スープとイデオロギー』のところがお父さんらしい?
人生、楽しいことばかりじゃないからね。悲しいとき、ひとりぼっちになったとき、困難に直面したとき、あるいは他者との出会いを通じて、ほんとうの自分というものを知るものだよ。
それはとにかく、あのオモニのひね鶏のスープ、おいしそうだったね。
鶏を丸ごと一羽、中にはニンニクを詰めるだけ詰めて。ナツメ少々、高麗人参は5個。
よく似た鶏のスープを韓国料理店でご馳走になったことがあったよ。絶品だったね。
ニンニクのにおいですごかったんだろうなあ。帰りの電車は周囲から人が消えてしまった。
また食べたいと思っていたのに、お店が閉店してしまって、残念でね。映画の中で再会できてうれしかったよ。
あのスープは、ヨンヒさんとの結婚の挨拶にやって来たカオルさんにふるまうためのスープで、特別なハレの日の料理なんだね。
そしてヨンヒさんとカオルさんはこのスープのレシピを受け継いでいく。
『スープとイデオロギー』の「スープ」の部分だね。
そして、「済州4・3事件」の壮絶な悲劇。
ん? お父さんがヤン ヨンヒ監督作品を観るの初めてなの、意外?
『ディア・ピョンヤン』『愛しきソナ』『かぞくのくに』は知っていたし、以前から興味はあったんだ。
ただ、映画を観る機会に恵まれなかった。
この作品を見て、二つの作品を思い出したなあ。辺見庸さんの『もの食う人びと』であり、そしてテオ・アンゲロプロス監督の『エレニの旅』だね。
『もの食う人びと』については、監督のヨンヒさん自身もこういっているね。
「『スープとイデオロギー』というタイトルには、思想や価値観が違っても一緒にご飯を食べよう、殺し合わずに共に生きようという思いを込めた」
『JSA』のパク・チャヌク監督は、彼女の作品をこんな風に紹介している。
「彼女の作品たちは、単純に、ある個人についての映画ではありません。普通は対立すると思われる二つのカテゴリーの関係について問い続ける映画です。その目録はとても長い。個人と家族、個人と国家、韓国と北朝鮮、韓国と日本、資本主義と共産主義、島と陸、女と男、母と父、親と子、新世代と旧世代、21世紀と20世紀、感情と思想、そして何よりもスープとイデオロギー。」
若い頃の私は、左翼の活動家だったけれど、国家やイデオロギーの枠組みでしか在日韓国・朝鮮人の存在を捉えられない党派の理論や路線に反発していた。
以前、こんな文章を書いた。
「在特会」なる差別排外主義集団が登場したとき、当然、私は怒った。怒り狂った。
しかし私の言説は、〈差別〉を許さないと同時に、〈反差別〉を掲げる、左派・リベラルに潜んだエリート意識、自民族中心主義を批判するものになった。
いわゆる「在特会」について
https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/d6e0d99f03a71d2d90b5712aeb8c3067
このエントリで触れたように、済州島蜂起に関する知識だけはあった。
しかしもちろん、当事者の話を聞くのは初めてだった。
オモニとっても思い出したくない過去だったのだろう。
ヨンヒさんもこう語っている。
「1948年から起こった『済州4・3』についての私の知識は漠然としたものだった。済州島生まれの父が日本に渡ったのは1942年だったし、母は日本生まれなので、遠い親戚や父の幼馴染の中に大虐殺者の犠牲者がいるかも知れない、くらいの認識だった。まさか当時18歳だった母がその渦中にいたとは……」
大阪大空襲で焼け出されたオモニたちは、着の身着のまま、故郷の済州島に疎開したのだという。
この映画では、オモニの体験は、アニメーションで再現されている。
アニメーション原画:こしだミカさん
この済州島蜂起では、オモニの婚約者も蜂起に加わり、虐殺された。
オモニも、火炎瓶に使うのであろうガソリンを運ぶなど、危険な任務を担った。
そして、弟と妹を連れて、日本に脱出。
ウクライーナでロシア軍がやったように、動くがものがいたらすぐ銃を浴びせかけてくるような、危険な逃避行だったろう。
オモニたちは、兄妹仲良く遊びに行くように見せかけて、監視の目をくぐり抜けたという。
妹をおぶって、弟を連れて、岸壁から板を歩いて船に乗るの、怖かっただろうな。
今はさすがにそんなことはないだろうけれど、陸(おか)でも船でもないブリッジで転落した人は、助けないのが船乗りの掟だったからね。
このエピソードはオモニの生涯を象徴しているかもしれない。
この映画は「母と子」の物語でもある。
ヨンヒさんは、朝鮮総連の熱心な活動家で、三人の兄を帰国事業で北に送った母を憎しんできたという。
優しかった音楽家の兄は、北に行き、精神を病み、死んだ。
しかしヨンヒさんは、オモニが受けた済州島の壮絶な体験を聞いて、オモニを責めることができなくなったという。
婚約者を、同胞を虐殺した大韓民国だけは絶対に許さない。
それは「イデオロギー」以前の、恨み、悲しみ、無常、解放へのあこが。これこそまさに「恨」(ハン)だと思った。
写真は済州島に70年ぶりに帰ったオモニとヨンヒさんとカオルさん。
4・3の犠牲者たちの慰霊施設。オモニの婚約者の墓はない。生存する彼の弟は「あのことは思い出したくもない」と名前の登録を拒否したのだという。
事件は住民たちに大きな傷跡を残した。
映画の後半で、アルツハイマー症となったオモニとの日々が描かれる。
オモニは亡くなったアボジも、息子たちと一緒に暮らしていると思い込んでいる。
息子たちを北に送ったことを忘れているのに、それでも金日成を讃える歌だけは覚えている。この悲喜劇。
ピョンヤンにいる姪のソニに手紙を書くヨンヒさん。
最初に、この映画に『エレニの旅』を思い出すといった。
ロシア革命後、オデッサからギリシアに逃れたエレニは、紆余曲折を経て、幼馴染と結婚する。
しかし貧しさから、夫はアメリカに渡り、そして沖縄で戦死してしまう。
第二次大戦が終わっても、朝鮮半島と同様、ギリシアでは戦争は終わらなかった。
エレニの双子の息子は、コミュニスト陣営とファシスト陣営に分かれ、そして二人とも戦死してしまうんだ。
二人の息子の死体を前にエレニが泣き叫ぶところで、この映画は終わる。
私はエンドロールが終わり、照明がついても、席から立ち上がれなかった。
私には、あの映画のエレニと『スープとイデオロギー』のオモニが重なる。
しかし孤独なエレニとは違って、オモニにはヨンヒさんがいて、カオルさんという新しい家族ができた。
そこがこの映画の希望だ。
急に4・3について語りだしたオモニについて、ヨンヒさんは「託された」と表現している。
食べることからも、思想や感情を抱くことからも、人間は逃れることができない。
スープの味も、イデオロギーの悲劇も、どちらもわれわれが未来へと受け継いでいかねばならないテーマだね。
拉致問題を政治利用し、差別排外主義を煽り続けて政権に居座り続けてきた日帝・安倍狙撃のニュースを聞きながら。
ん? 安倍さんでも助かってほしい? もちろん。人民の裁きを受けるまで、地獄に逃亡なんて許さないよ。
最後に、公式サイトのレビューからの転載。
人々はヤン ヨンヒについて「自分の家族の話をいつまで煮詰めているのだ。まだ搾り取るつもりか」と後ろ指をさすかもしれません。しかし私ならヤン ヨンヒにこう言います。「これからもさらに煮詰め、搾り取ってください」と。
彼女の作品たちは、単純に、ある個人についての映画ではありません。普通は対立すると思われる二つのカテゴリーの関係について問い続ける映画です。その目録はとても長い。個人と家族、個人と国家、韓国と北朝鮮、韓国と日本、資本主義と共産主義、島と陸、女と男、母と父、親と子、新世代と旧世代、21世紀と20世紀、感情と思想、そして何よりもスープとイデオロギー。
ヤン ヨンヒの母親、この老いた女性一人の顔を見つめながら、私たちはこれらすべてについて省察することができます。映画『スープとイデオロギー』は、ヤン ヨンヒのこれまでの作品のように、私たちがいつまでも噛み締めなければいけない思考の種を与えてくれます。ヤン ヨンヒは引き続き煮詰め搾り出し、私たちはこれからも噛み締めなければなりません。
パク・チャヌク 映画監督
(『JSA』『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』『お嬢さん』)
新しい家族― 映画『スープとイデオロギー』は、ヤン ヨンヒ監督の「家族ドキュメンタリー映画3部作」の最終章だ。『ディア・ピョンヤン』『愛しきソナ』で東京・大阪・ピョンヤンに分かれていた家族は、大きな変化を経験する。日本人・荒井カオルの登場である。
真夏の大阪にスーツを着て、汗をかきながら現れた彼は、オモニ(母)が作ってくれた鶏スープを食べる。彼はオモニのレシピに沿ってスープを作り、オモニをもてなす。複雑な歴史をもつこの家族の中に、この日本人は一歩一歩溶けこんでいく。
キム・ウィソン 俳優・映画監督
(映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』、
Netflixドラマ『ミスター・サンシャイン』『アルハンブラ宮殿の思い出』)
学生時代、大阪市生野区在住身体障害者の介護をやっていました。六年間くらいでしょうか。一九八六年から一九九二年まで。土地柄、在日韓国・朝鮮人も多く集まって楽しかった思い出がたくさんあります。さらにマスコミでは「在日韓国・朝鮮人」と一括りに表現しがちですが、在日二世〜三世と移り変わっていく中で日本人と結婚する若い人たちも当然出てくるし、単純に一括できるような共同体では早くもなくなりつつありました。
当時も思い今なお思うことは、ともかく「時間がかかる」だけでなく、じっくり掘り起こしていかないことには、個々別々に辿ってきておりなおかつ未解決のまま棚上げされている事情が明瞭に見えてこないということです。
映画は残念ながら家計の苦しさゆえ観る機会がないのですが、なにか申し合わせたかのようにマイノリティへマイノリティへどんどん追い込まれていく地域コミュニティの小さな声を拾い上げていこうという機運は八〇年代後半にも盛り上がっていました。中曽根内閣だったからです。露骨な帝国主義者が首相になると政治政策にそれが反映されるのでよくわかりますよね。
じっくり、粘り強く、見て、考えて、できることはできる範囲でやっていければいいなあと思うばかりです。
ではでは。
舞台はまさに大阪市生野区です。オモニは1930年生まれですから、白蝋金さんがボランティアに入っていた頃はまだ50代。御幸通り商店街ですれちがっていたかもしれませんね。
私のいま住んでいる町にも在日コミュニティがあります。1994年、チマチョゴリ切り裂き事件がありながらも、私がこの町に来た頃は、民族衣装を着た女学生さんたちの登下校の姿がありました。しかしある日をその姿を見ることはなくなってしまいました。拉致問題を契機にした差別排外主義の高まりですね。
本当にひどい世の中になりました。しかしヨンヒさんの作品には希望を感じます。カオルさんと一緒にオモニの家にお邪魔しているような感覚になる、不思議な感覚のドキュメンタリーでした。