新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

『生きる LIVING』を観て

2023年04月12日 | 映画/音楽
ハイキングはおもしろい。

ハイキング中は、歩く、休む、食べる、飲む、動物としての本能的な営みがあるだけ。息を継ぎ、足を運び、水を飲み、休み、行動食を摂る。そのシンプルな繰り返し。

山を歩いていると、「生きてるって感じ」がする(愛すべきプリキュア戦士・花寺のどかの口ぐせ)。

人生の折り返し点は、とっくに過ぎてしまった。馬齢を重ねてきただけだが(馬に失礼)、残りの人生を楽しんでいきたい。



……と、いうわけで、今日のテーマは、『生きる』のリメイク版『LIVING』について。
月曜夜、下書きを保存しただけのつもりが、アップしてしまっていた。
リライトのうえ、再掲します。





黒澤明については、柏木隆雄先生の黒澤論をめぐって、以前、こんなエントリーをアップしたことがある。

https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/44175585b99a539c1b9d5f66eab0d147
(なぜかリンクできない? 興味のある方はブログ内検索「生きてこそ」でお願いします)

「生きてこそ」というタイトルは、ソーシャルゲーム『マギアレコード』の「五十鈴れん」のバトル時の勝利ボイスであると同時に、黒澤の『生きる』へのオマージュでもある。

この対話編でも触れたとおり、私は『用心棒』を観ないと新年を迎えた気分になれないけれど、わざわざリメイク版を観に行くほどのファンでもない。ここ数年はミニシアター系の社会派作品かアニメばかりで(両極端)、アカデミー賞候補になるような作品からは足が遠ざかっている。

久しぶりにTOHOシネマズに行く気になったのも、このリメイク版について教えてくれたのが、ツイッターのフォロワーさんにはおなじみの、いつものお店のお母さんだったからだ。

先週の火曜の夜、お店を訪ねると、よその店で飲んできた常連の大先輩が絶好調だった。日曜、近所の公園で花見をして、主催の飲み屋さんのコネでやってきた吉本の女性芸人と一緒に飲んだのが、本当に楽しかったらしい。同じ話の繰り返しだったが、私は「うんうん」と相づちを打っていた。お母さんとテレビを見ながらのんびり話したかったのだが、こんな夜もある。

先輩がトイレに立つと、「お兄ちゃんに、これ渡そうと思って」と、お母さんから折りたたんだ新聞紙を渡された。それが3月31日の読売新聞夕刊に掲載された、「終幕前の輝き 黒澤魂継ぐ」と題したこのリメイク版のレビュー記事だった。

お母さんは映画好きで、若い頃は小津や黒澤のファンだったそうだ。映画の話をしていたときに、イギリスで『生きる』のリメイク版が進行中だと教えてもらった。お孫さんが映像関係の仕事をしているそうで、新聞もテレビも見ない私などより情報が速い。映画も公開され、新聞にも記事が出たので、私に見せようと持ってきてくれたのだった。

膝を痛めたお母さんに代わって、このリメイク版を観に行く気になった。

私が『生きる』のオリジナル版を観たのは、中学生か高校生の頃だ。

はるか昔のことで、志村喬演じる市役所の市民課課長の渡辺がブランコに乗って、『ゴンドラの唄』を歌うシーン以外は、ほとんど忘れていた。

なぜか、あの課長が、普段は職員食堂のうどんのつゆを最後まで飲み干すと女性職員に陰口をいわれるシーンが、記憶に残った。太宰治の『水仙』の蜆汁ではないけれど、ラーメンや蕎麦やうどんを食べるたびに、あの台詞を思い出す。


リメイク版を見に行く前に、アマゾンプライムで『生きる』オリジナル版を購入し、数十年ぶりに視聴した(レンタルは48時間の制限があるので、奮発してみた。6回観たら、元がとれる)

うどんの話は、30年間無欠勤の達成を目前にして急に休んだ課長をいぶしがる、部下たちの会話の流れのなかで出てきたもので、「普段は飲み干すうどんのつゆを、最近は残している」というものだった。




数十年ぶりにこの作品を観て……。

公開年が1952年であることに、まず驚いた。
どうしたわけか、私は、この作品を1960年代前半の作品だと思い込んでいた。予想より10年古い(歴史感覚の欠如)。

しかし『生きる』の世界は、1960年代ではありえない。紛うことなき1952年の世界であった。

まず、テレビが登場しない(テレビの放送開始は1953年2月1日である)。

電話さえも出てこない(固定電話の普及率は1955年の段階でわずか1%、 1972年の段階でも30%でしかなかった)。

サンフランシスコ講和条約締結の翌年で、日本はまだ戦後復興の途上にあった。

記憶とはなんとあやふやで、いい加減なものか。この映画のオープニングが、胃部のレントゲン写真が映し出され、「この物語の主人公は、まだ自分が胃がんであることを知らない」といったナレーションから始まるところも、全く記憶になかった。まるで往年の大映ドラマのようだと思った。いや、大映ドラマが、古式ゆかしい映画の「語り」を踏襲していただけなのだが。当時、胃がんは不治の病であった。胃がんの治療法の確立と標準化をめざして第一回胃癌研究会が発足したのは、この映画が公開された10年後、1962年のことだった。

自分が胃がんであることを悟った主人公の渡辺は、銀行から貯金を下ろし、市役所を無断欠勤し、睡眠薬を大量に買うも死ぬに死にきれず、夜の街をさすらう。飲み屋で出会った作家に連れ回される、パチンコ屋、キャバレー、ストリップ小屋、バーの猥雑さ、いかがわしさ。


『生きる』は東宝争議で一時東宝を去り、他社で撮っていた黒澤の東宝復帰第一作だった。


かつては仕事への情熱があり、業務改善をめざしたこともある渡辺だが(今も引き出しに仕舞われた筆書きの改善提案書は、ハンコの朱肉拭いに使われている)、もうすっかりやる気をなくしている。この人物は、東宝争議の敗北も含めた、戦後民主革命の挫折を象徴するキャラクターかもしれない。不衛生な下水だめの改善の陳情に市民課を訪れた長屋のおかみさんたちが、下水課、公園課、土木課、衛生課とたらい回しにされるのも、民主主義がすでに理想を失い……1946年11月3日の憲法公布のときは、あれほど夢と希望と喜びに満ち溢れていたのに……官僚主義に陥ってしまったことに対する、鋭い批評眼がある。

志村喬は1905年3月生まれで、映画公開時は47歳。凡庸で情けない中年男を演じながら、あの老成ぶり、貫禄はどうだろう。私のほうは、とっくに五十路を過ぎながら、知命はおろか、不惑にも而立にもほど遠い。

私はこの渡辺を、定年目前と思っていたが、「30年間無欠勤」というからには、高等小学校卒として40代前半、旧制中学卒として40代後半であろう。出征した光男の年齢から逆算すると、志村と同じ40代後半だと考えられる。60歳定年が企業の努力義務になるのは1986年で、当時は満年齢で55歳定年だったはずである。それでも定年までにはまだ時間がある。

自分が余命いくばくもないことを知り、愕然として、仏壇の亡き妻の遺影の前に座り込んだ渡辺が、まず思い出すのは息子の光男のことである。霊柩車に続く自動車のなかで「お母ちゃんが行っちゃうよ」と泣いた幼なかった日、野球でみごとヒットを決めるも盗塁でアウトになってしまう少年の日、そして日の丸が振られる駅のホームから旅立つ出征の日。このシークエンスも、完全に記憶から欠落していた。まだ親の心情に思い馳せるには、若すぎたのか。

戦時中は数え年20歳で出征だった(満年齢の採用は1950年から)。光男は大正終わりか昭和初年の生まれなのであろう。演じた金子信雄は1923年生まれだから、ほぼ同世代である。

『必殺仕事人』の「婿殿!」の菅井きんが長屋の若おかみで(『ゴジラ』では舌鋒鋭い若手議員役だった)、『仁義なき戦い』の小狡くセコいヤクザの親分役や『金子信雄の楽しい夕食』の好々爺の金子信雄が光男役(イケメンだが今風にいえばチャラ男だろうか)で出ているのは、ちょっとおもしろい。おばあさん、おじいさんも、最初からおばあさん、おじいさんであったわけではないのだ(当たり前の話だが、若い頃には想像だにしなかったこと)。

このブログに、ときどき出てくる「ご隠居」が、この光男と同世代であることは、新鮮な発見だった。私はご隠居がじいさんになってからしか知らない(初めて会ったときにはもう古希を過ぎていた)。この映画を観ていると、いわゆる昭和生まれの私だって、平成生まれの若者にとっては、私が若い頃の大正世代のように「生ける過去の存在」になっていることにも気付かされる(小田切みきが渡辺につけたあだ名の「ミイラ」のようなものか)。


市役所を辞め、今はおもちゃ工場で働く元部下の小田切みき(役名はとよ)と食事をともにし、あちこち出かけるうちに、渡辺は彼女の自由奔放な生き方や、若さ、生命力に惹かれていく。はたから見れば老いらくの恋。噂を聞いた息子夫婦も呆れている。

課長さんはなぜ市役所をサボって、遊んでばかりいるのか。とよにたしなめられた渡辺は、意を決して、自分が余命少ない胃がんであることを告白する。

この場面のとよが、じめじめせず、あっけらかんとしていていい。工場で作っている、ぜんまい仕掛けのうさぎのおもちゃを見せて、「何か作ってみたら」と助言するのだ。渡辺は自分にもまだできることがあることに気づき、次の日市役所に復帰する。そして生まれ変わったように、長屋のおかみさんたちが訴えていた、市民公園の建設に奔走する。



水曜夜にオリジナル版『生きる』を観た翌日、木曜はいつもより仕事を早めに切り上げ、リメイク版を観に行った。

TOHOシネマズに来たのは、ずいぶん久しぶりである。2016年の年の暮れに、『君の名は。』を観たのが最後だったか。

えっ? もう6年以上前? 

まさかそんなはずはない、と思って、このブログの過去ログを確認したけれど、松竹系かミニシアター系で観た映画の話しか書いていない。
メジャー系の作品では、労組の若い人と観に行った2018年の『ボヘミアン・ラプソティ』も、2019年の『ジョーカー』も、ステーションシティシネマで観たと記憶する。

震災の記憶をご都合主義的に上書きして、東京五輪翼賛映画の役割を果たした『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の二大ヒット作がつくづくいやになり(前者は内閣総辞職ビーム、後者はキャラデザと三葉役の上白石萌音が大好きだったのに)、TOHOシネマズからすっかり足が遠のいてしまったようである。

リメイク版『LIVING』のオープニングは、2階建てバスが走る1950年代のロンドンの風景の映像が映し出され、郊外の駅からの市役所の面々が出勤するシーンから始まる。

このリメイク版のシナリオを手掛けたカズオ・イシグロが、インタビューで語っていた。オリジナルは、オープニングで、ナレーションにより作品のテーマを語ってしまうのは、あまりにも直接的にすぎる、と。

たしかに、そのとおりだ。懐かしの大映ドラマのオープニングも、1980年代には、時代がかっていて、一種のパロディの対象になっていたものだ。このリメイク版の導入は、ごく自然に感じられる。

オリジナルの通夜の場面では、感極まった若手職員が、渡辺課長の功績について熱く語る場面がある。しかし渡辺とその若手職員との間に、何か直接のやりとりがあったわけでなく、これも少し唐突に感じられた。リメイク版のラストで課長の手紙を託される新人は、この若手職員を掘り下げようとしたものだろう(この新人に「親展」と書かれた手紙が遺されるのも、取ってつけたようではあったが)。

オリジナルとリメイクの最大の違いは、主人公のビル・ナイの存在感である。

志村喬はクランクインの前に盲腸を患い、痩せこけていたそうだ。そのままの体型を維持するように黒澤に指示されたという。

しかし、志村は『用心棒』で脂ぎった狒々親父を演じただけあって、同じ干物でも、ビル・ナイがメザシとしたら、志村にはホッケくらいの脂っけがある(70代のナイと当時40代の志村の年齢差を考慮しなければならないとしても)。「老いらくの恋」という劇中の台詞も、当たらずといえども遠からずである。とよに付きまとうところは、現代の感覚なら、ストーカー扱いされてしまいそうだ。

カズオ・イシグロは、『生きる』の主人公に笠智衆をイメージしたのだという。

志村喬の課長は部下たちにばかにされていたが、ビル・ナイの課長は威厳に満ちた物静かな英国紳士で、部下たちに恐れられている。

トム・ハンクス主演で米国版『生きる』の企画があったという。トム・ハンクスの面差しや体型、篤実なキャラクターは、志村に通じるものがある。このアメリカ版リメイクも観てみたかったけれど、志村と通じるところがありすぎて、いちいちオリジナルと比較してしまうことにしかならならなかっただろう。いまどきのハリウッド映画に、黒澤映画の陰影や闇、哀愁が表現できるのか。枯淡の味わいのあるビル・ナイの起用は、成功だったと思う。

オリジナルでは、医師は胃がんであることを明言しない(曖昧な日本の私)。しかし、英国版でははっきりと余命宣告される。ここも日本とイギリスの文化や習慣の違いであろう。

志村喬は「いのち短し、恋せよ乙女」という歌詞の楽曲「ゴンドラの唄」をブランコにのりながら歌う。映画史に残る名シーンだ。

リメイク版でビル・ナイが歌うのは「The Rowan Tree」(ナナカマドの歌)というスコットランド民謡である。

『ゴンドラの唄』は、「命短し」のフレーズが作品のテーマに重なりはするのだが、渡辺にも青春時代があったことをほのめかしながらも、どこか唐突でもある。『ナナカマドの歌』は、「Mr.ゾンビ」と呼ばれる以前の、妻と子と過ごし生き生きとした、はつらつした日々が伝わってくる。これも素晴らしい改変だった。


英国には「通夜」という儀式はない。

オリジナルでは「通夜」の一晩で済んだエピソードも(この通夜は黒澤のお気に入りのシーンだったそうだ)、リメイク版では、葬儀のあとのティータイム、帰りの汽車の車中、課長がブランコを漕ぐ公園と、順序も変えて、細切れに再現される。これも導入部と同じく、自然な流れに感じられた。

何といっても、『生きる』は70年あまりの前の作品である。私の知る通夜や精進落しといえば、親族や身内だけのものだけで、この映画のように故人の仕事関係の人間も加わるのは、準ゼネコンの役員だった伯父の葬儀など、数えるほどしかない。最近は家族葬が主流で、組合員のご家族の通夜や葬儀にも出席することはなくなってしまった。

と、オリジナルとリメイクの違いを書き連ねてきたけれど、ストーリーはおおむね共通している。あのうさぎのおもちゃも、意外なところで出てくる。




「Mr.ゾンビ」に「生きる」意味を再発見させる、元部下のマーガレット。彼女は本当にいきいきしていて、かわいらしかった。

オリジナルの志村喬のあだ名は「ミイラ」、リメイクのビル・ナイのあだ名は「Mr.ゾンビ」。

あれ?と思った。

ロメロ監督の『ゾンビ』は1978年作品ではなかったか。

しかしゾンビ映画の歴史は意外に古く、1932年の『不夜城』に始まり、ロメロ監督のデビュー作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 』(Night of the Living Dead 1968年)以前にもたくさん製作されている。マーガレットが知っていても不自然ではない。

とはいっても、お化けや妖怪が好きだった小学生男児だった私も、ゾンビを知ったのは従兄の読んでいた映画雑誌の『ゾンビ』のレビュー記事である。英国の映画事情はわからないが、ツタンカーメンの呪いとセットになったミイラ男のほうが、当時はポピュラーだったのではないか。

しかし今の若い人は、ツタンカーメンの呪いもミイラ男も知らないかもしれない。そしてゾンビの生態(死んでるけど)を表すLiving Dead (生ける屍)は、組織のなかで生きる意味を見失った現代人の疎外を表現するにぴったりのことばだ。これも現代風の改変であろう。

シナリオを手掛けたカズオ・イシグロは積ん読だったので、この映画はよい入門編になった。

と、リメイク版を絶賛しまくりのわけだけれど……。

れんちゃん、『生きる』リメイク版、どうだった……?



「とっても、素敵な映画だったよ…!でも、ぉ店のぉ母さんには、『テレビで放映したらご覧になったら良いですよ』といってた…ね」

うん。素晴らしい作品ではあるけれど、足の悪いお母さんが、わざわざ映画館に出かけるまでではない、とは思ったな。

睡眠薬を大量に買っても死にきれず、作家と出会い、夜の街を連れ回されるところは一緒だけれど、あのシークエンスはオリジナルには及ばなかった。
伊藤雄之助が演じたあの作家には、メフィストフェレスのような怪しさ、いかがわしさ、そして茶目っ気があったね。『太陽を盗んだ男』を観たの、覚えている? 沢田研二と菅原文太が出会うきっかけになった、日本兵の軍装で天皇に会わせろと要求したバスジャック犯役を怪演した人だよ。

闇があるから、光がある。志村喬を夜の街に連れ回す、伊藤雄之助のメフィストフェレスばりの名演技があったからこそ、小田切みきがグレートヒェンのように光り輝くのだと思う。あの夜の街のシークエンスは、いわゆるモブ、チョイ役の夜の女たち、男たちも、猥雑な生命感に溢れていた。あれは黒澤の本物志向、リアリズムの賜物だね。

リアリズムといえば、あの市役所の書類は、見るからに本物で、小道具も凝っているなあと思ったら、世田谷区役所砧支所で借りてきた「本物」だそうだ。現在なら公文書管理法や個人情報保護法もあって、絶対にありえないね。良くも悪くも映画が娯楽の王様であった時代の力も大きいだろうな。だから、このリメイク版の悪口をいいたいわけじゃない。

れんちゃんは、どんなところがよかったと思う?

「カズオ・イシグロさんがインタビューに答えているね…。ささやかでも、ヒーローになることは誰にでもできる、これが最初に『生きる』を見たときに受け取ったメッセージだったって…。でもそれは、誰かに称賛されるためでなく、自分自身の夢のために。どんなに傷ついても、生きる喜び、生きる意味を求めていく大切さを教わったように思います…はぃ」

https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2023/03/story/20230307living/

それは何よりだ。誰かが古典になる条件は、一度死ぬことだといっていた。死なないとよみがえることもできないからね。この映画のテーマは今も普遍的なものだ。しかし黒澤の『生きる』は名作として知られながら、最近の若い人は観たことがない人ばかりなのだそうだ。皮肉にも名作という名のLIVING DEADになってしまっていたわけだね。しかし黒澤の『生きる』が、カズオ・イシグロやビル・ナイによって新たに生まれわかった。こうして物語は紡がれていく。これは素晴らしいことだね。

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