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シン・ゴジラ ゴジラという現象(2016年の映画)

2017年02月01日 | 映画/音楽
『シン・ゴジラ』は、楽しみ半分、不安半分でした。しかし結局、3D、4D、IMAX、通常版を2回と、合計5回も観に行ったわけですから、まずまずの「アタリ」でした。

 ゴジラに破壊された東京が火の海になるシークエンスの映像と音楽は、何度観ても美しかった。庵野秀明責任編集『シン・ゴジラ』公式記録集『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』も早速予約しました。完全台本やCGの設定資料などです。

 しかしこの映画には、時代の変化も感じました。かつての怪獣映画で、観客に状況を説明するのは、輪転機が回り刷り出された新聞紙の一面トップであり、テレビのニュース映像でした。テレビは健在ですが(電気屋で、他が報道番組なのに通常番組を流しているテレ東らしき局とか、芸が細かかったですね)、本作ではもう新聞は出てきません。その代わりに、ニコニコ生放送やTwitterなどのソーシャルメディアの投稿画面が肩代わりしています。

 『シン・ゴジラ』では、わざと違うカメラで、画調も画質もバラバラでストーリーが進行していきます。ムービーも撮影可能なキヤノンのデジタルカメラ、そして庵野監督のiPhoneも用いられているそうです。「画質の粗さ」も、リアリティを演出する重要なテイストになっています。

 ゴジラの新作映画の話を聞いたのは、ゴジラ60周年と伊福部昭生誕100年を記念した『ゴジラ音楽祭』で、宝田明氏(第一作の主演)のトークライブでした。

 宝田明さんは、ハリウッド版ゴジラに、「ゴジラを生んだ核実験が、怪獣退治のための正当防衛に変更するなどとんでもない」と怒りを炸裂。満場の拍手です。私は室田さんの話に、新作への期待に胸を膨らませ、オーケストラの全曲生演奏とともに、NHKホールの大スクリーンで『ゴジラ』を心ゆくまで堪能し、大阪に帰ったものです。

 その後、総監督があの庵野秀明氏と知ると、期待は不安に変わりました。しかし、よい意味で期待は裏切られました。

 編集にも、映画業界で標準の編集ソフト Avid Media Composerではなく、Adobe Premiere Pro CCで行われたといいます。業務用とはいえ、プロ用ソフトではありません。弊社でもWebの動画編集に使用しているけれど、映画スクリーンの大画面には耐えられるクオリティではありません。「そんなソフトを使うなんてアホか」と他の制作現場のスタッフから言われたそうです。東日本大震災のときそうだったように、一歩引いた状態で状況を見守るテレビカメラの高品質な映像がある一方で、市民がリアルタイムで現場で撮影した携帯電話のカメラの粗い画像がある。この両方が存在することで、『シン・ゴジラ』には、ドキュメンタリーを見ているようなリアリティが生まれています。

 この映画には、宮沢賢治の『春と修羅』が引用されます。
 『春と修羅』では、明滅する「わたくし」という「電燈」が光を放ったその刹那に、「風景やみんな」が照らされて浮かび上がります。
 「現象」としての「わたくし」が明滅するのに呼応して、初めて世界が産みだされるのです。世界とは、常に「わたくし」が感知した世界であり、世界もまた「現象」であるということです。

 ある人がこんなことを言っていました。劇中で、ゴジラを物理的な「存在」として打ち倒そうとした作戦はすべて失敗する。たしかに、自衛隊の攻撃はダメージを与えることすらできず、米軍の戦闘機は熱線攻撃の反撃を受けて全滅します。しかし、ゴジラを「化学反応の連鎖」という「現象」としてとらえたことで、その動きを停止させるヒントが見つかるのだ、と。

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です (『春と修羅』)

 しかしゴジラは冷温停止したまま、東京のど真ん中に残り続けます。このカットもまた、ポスト3・11の日本人の「こころ」を映し出す「こころのひとつの風物」といえるでしょう。
 

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