新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃん姉妹とお父さんの日々。

ソング・オブ・ザ・シー(2016年の映画)

2017年01月31日 | 映画/音楽


 ある映画関係者が、インタビューで、「プロモーションのキービジュアルは、あくまでもポスターだ」と語っていました。

 これからは電子書籍だ、いやデジタル・サイネージだと、「紙メディアの終焉」が叫ばれていた頃に読んだ記事で、印象に残りました。映画は「動くメディア」だから、イメージを固定して、見る者に刷り込むことの大切さが、そこでは語られていたように思います。

 ポスターの力は大きい。たしかに、ポスターを見て、その場で観ることを即決した映画もあります。近年観た映画では、『草原の実験』と、この『ソング・オブ・ザ・シー』がそうです。

 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のポスターには、思わず立ち止まりました。かつて読んだスコットランドのケルト民話の情景そのままだったからです。

 「岩の上に一人の女の子がいた。その子は裸体で、和らかい白い月光を身にまとうていた。髪には黄ろい海草をかぶり、それが月の輝きに金いろに光っていた。両手で大きな貝を持って、その貝に彼女の口をつけていた。歌をうたっていた、海の楽のひびきがふくまれて、聞くに痛みを覚えるほどの美しい歌であった。

 わたしはさびしい小さい子
 たましいのない子
 神はわたしを家もない波のようにおつくりなされた
 あてもない波のように

 わたしの父はあざらし
 人間の身を変えたあざらし
 母は父をいとしう思うた、人間の
 姿でもない父を」

 (フィオナ・マクラウド『海豹』松谷みよ子訳)

 『ソング・オブ・ザ・シー』は、このマクラウドの作品とは反対で、人間の父とあざらしの母の物語です。

 松村みね子は歌人・片山廣子の筆名。芥川龍之介の「或阿呆の一生」に登場する「越し人」その人であり、堀辰雄の『聖母子』『菜穂子』などのモデルにもなっています。『花子とアン』には登場しませんでしたが、愛児を失い絶望の底にあった村岡花子に、『王子と乞食』の翻訳を薦めた人でもあります。

 『ソング・オブ・ザ・シー』には、ジブリ作品へのオマージュはあちこちに認められます。波の表現は北斎の『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」でしょう。2016年に観た映画では、この作品がマイベスト作品です。生涯でもベスト10に入ってくるかもしれません。

 本作は、「鶴女房」ならぬ「あざらし女房」の物語です。重要な役割を果たすコートは、羽衣伝説のような側面もあります。

 「沈める寺」の伝説は、ケルト神話にもあり、ロシアの逃亡派が伝える伝説にもあります。日本にも、戦で焼かれた廃寺の鐘を、池の底で竜が抱いて守るという民話があります。こうしたイメージの同時性、共通性にも、興味は尽きません。

 (大むかしからの伝説と思ったら、タネ本は翻訳された外国の物語で、明治以前に遡ることはできないなんて事例も、何かで見かけたから、油断はできない。民衆は嘘をつくのが大好きだ)

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