本人のコメントは以下にリンク。
私の離党届提出について
参院選前だったか、ある週刊誌でテリー伊藤との対談を見かけた。辻元はことばの端々に、社民党の連立政権離脱に対する悔しさをにじませていた。「仕事好きの人だったんだな」と私は思った。テリーは福島をこきおろしながら(「それは福島さんに直接おっしゃってください」と辻元は大人の対応をしていた)、「新党を作れ。おれも応援に行くから」としきりに持ち上げていた。
執行部との不協和音が起きていることは明瞭だった。そして社民党は参院選に惨敗。辻元は次の衆院選をどう戦うつもりなのか。面識があったわけでなく、立場や路線も異なったけれど、彼女は80年代の左翼活動家の世代代表のようなものだ。離党とまでは思わなかったが、気になっていた。
社民党の保坂のぶとは、辻元の離党表明に一定の理解や共感も示しながら、ブログにこう書いている。
「社民党は、原則を持ちながらも、しなやかで融通のきく「したたかな方針」をもって難局に対応する政治力を駆使することが求められる。ただ、原理原則の反対野党では、急坂を転がるように影響力を消失させていく道をたどる。浪人の身ゆえに、こうしてブログに意見を書くことぐらいしか出来ないのが悔しい。」
もちろん、辻元離党に対する批判・非難もあるだろう。たとえば、天木直人ブログでは、逆に「反対野党のどこが悪いのか」と竹を割ったようにストレートだ。
「私は辻元清美の社民党離脱を歓迎する。
その事によって社民党の分裂が本格化し社民党が消滅することを歓迎する。
今こそ福島瑞穂は理想を目指して再出発するのだ。
辻元清美と対極の政治家を目指すのだ。
参院選に当選したばかりの福島瑞穂氏には幸いにも6年の任期がある。
保守政党ばかりが権力欲しさに政界再編を繰り返そうとしている中にあって本物の平和政党をつくってみないか。」
保坂には悪いが、社民党の分裂と消滅を私も歓迎する。共産党がそれに続けば、左派の新しい再編も可能になると考えるからだ(今回の参院選の大幅得票減が示すように、共産党の地区党組織の瓦解は、猛烈な勢いで進んでいるようだ。2011統一地方選挙で、それは決定的なものになるだろう)。
社民党分裂後の結集軸は、天木の提唱する「憲法九条新党」でもいいし、「プレカリアート新党」でもいいし、辻元もキャッチフレーズ通り「ピースでエコでフェアでフェミ、歳とってもぼちぼちやれる、そんな社会がええやんか新党」でも、なんでもいい。
もちろん、これらの「新党」がどこまで支持を広げられるかは課題山積だ。憲法を前面に掲げた大阪選挙区の社民党の新人候補は、ネオリベラリズムの新党の新人候補と同次元の戦いしか繰り広げられなかった。この現実を直視しければならない。
私は福島よりは辻元を買っている。この点が、天木とは意見が異なる。買いかぶりかもしれない。上野千鶴子との共著『世代間連帯』(岩波新書)は、労組の現場にいる者には有益な示唆に富んでいる。これから労働現場の運動現場は、育児・教育・介護などとのリンクを抜きに考えていくことはできない。
ただ、上野にも辻元にも、「ぼちぼち」をスローガンに掲げながら、その上から目線は矯正したほうがいいように感じる。辻元清美は「外国人労働者を追放してください」と訴える非正規雇用の若者に、「恐ろしさ」を覚えたそうだ。しかし労働者がこわくて労働運動や平和運動ができるか。私には、左翼のくせに、平然と秘書給与疑惑をやらかす辻元のほうがヤバくて怖い。何がこわいものがあるのか。大阪の商売人の娘ではないのか。
子供の頃の辻元は、公務員や会社員の賃上げデモを「あの人達は給料もらえるからいいなあ」とうらやましそうに見ていたという。左翼や労働組合のエリート主義(選民主義思想)に対する反発は、下町の庶民感覚として自然なものであり正当なものだ。こうした現実的なバランス感覚は、福島にない美徳であり、民主党の前原などにラブコールを送らせる理由でもあるだろう。
もちろん「庶民」だって無条件に正しい存在ではない。大阪人なら在日韓国・朝鮮人や被差別部落民への差別、70年代の解放同盟の糾弾闘争の誤りも、リアルタイムで見てきたはずだ。民衆は善にも転ぶし悪にも転ぶ。ヒューマニズムを唱えて「民衆の本音」を封じるだけでは、世代間対立もジェンダー間対立も進行するばかりで、権力の推し進める分断統治を打ち壊すことはできない。
まあ、清美もみずほもがんばれ。保坂、ついでにおまえもな、ということに尽きる。テレビのインタビューに、「彼女は仲間ですから」と悄然としながらもきっぱりと答えるみずほ党首の表情は、必ずしも悪くなかった。こうして「個人の肉声」が聞こえてくるところが、共産党にはない、社民党の救いかもしれない。
30日夕方の追記。コメントをいただき、こんな言葉を思い出した。今も指針になっている。
「新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。」
太宰治「徒党について」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1605_18109.html
私の離党届提出について
参院選前だったか、ある週刊誌でテリー伊藤との対談を見かけた。辻元はことばの端々に、社民党の連立政権離脱に対する悔しさをにじませていた。「仕事好きの人だったんだな」と私は思った。テリーは福島をこきおろしながら(「それは福島さんに直接おっしゃってください」と辻元は大人の対応をしていた)、「新党を作れ。おれも応援に行くから」としきりに持ち上げていた。
執行部との不協和音が起きていることは明瞭だった。そして社民党は参院選に惨敗。辻元は次の衆院選をどう戦うつもりなのか。面識があったわけでなく、立場や路線も異なったけれど、彼女は80年代の左翼活動家の世代代表のようなものだ。離党とまでは思わなかったが、気になっていた。
社民党の保坂のぶとは、辻元の離党表明に一定の理解や共感も示しながら、ブログにこう書いている。
「社民党は、原則を持ちながらも、しなやかで融通のきく「したたかな方針」をもって難局に対応する政治力を駆使することが求められる。ただ、原理原則の反対野党では、急坂を転がるように影響力を消失させていく道をたどる。浪人の身ゆえに、こうしてブログに意見を書くことぐらいしか出来ないのが悔しい。」
もちろん、辻元離党に対する批判・非難もあるだろう。たとえば、天木直人ブログでは、逆に「反対野党のどこが悪いのか」と竹を割ったようにストレートだ。
「私は辻元清美の社民党離脱を歓迎する。
その事によって社民党の分裂が本格化し社民党が消滅することを歓迎する。
今こそ福島瑞穂は理想を目指して再出発するのだ。
辻元清美と対極の政治家を目指すのだ。
参院選に当選したばかりの福島瑞穂氏には幸いにも6年の任期がある。
保守政党ばかりが権力欲しさに政界再編を繰り返そうとしている中にあって本物の平和政党をつくってみないか。」
保坂には悪いが、社民党の分裂と消滅を私も歓迎する。共産党がそれに続けば、左派の新しい再編も可能になると考えるからだ(今回の参院選の大幅得票減が示すように、共産党の地区党組織の瓦解は、猛烈な勢いで進んでいるようだ。2011統一地方選挙で、それは決定的なものになるだろう)。
社民党分裂後の結集軸は、天木の提唱する「憲法九条新党」でもいいし、「プレカリアート新党」でもいいし、辻元もキャッチフレーズ通り「ピースでエコでフェアでフェミ、歳とってもぼちぼちやれる、そんな社会がええやんか新党」でも、なんでもいい。
もちろん、これらの「新党」がどこまで支持を広げられるかは課題山積だ。憲法を前面に掲げた大阪選挙区の社民党の新人候補は、ネオリベラリズムの新党の新人候補と同次元の戦いしか繰り広げられなかった。この現実を直視しければならない。
私は福島よりは辻元を買っている。この点が、天木とは意見が異なる。買いかぶりかもしれない。上野千鶴子との共著『世代間連帯』(岩波新書)は、労組の現場にいる者には有益な示唆に富んでいる。これから労働現場の運動現場は、育児・教育・介護などとのリンクを抜きに考えていくことはできない。
ただ、上野にも辻元にも、「ぼちぼち」をスローガンに掲げながら、その上から目線は矯正したほうがいいように感じる。辻元清美は「外国人労働者を追放してください」と訴える非正規雇用の若者に、「恐ろしさ」を覚えたそうだ。しかし労働者がこわくて労働運動や平和運動ができるか。私には、左翼のくせに、平然と秘書給与疑惑をやらかす辻元のほうがヤバくて怖い。何がこわいものがあるのか。大阪の商売人の娘ではないのか。
子供の頃の辻元は、公務員や会社員の賃上げデモを「あの人達は給料もらえるからいいなあ」とうらやましそうに見ていたという。左翼や労働組合のエリート主義(選民主義思想)に対する反発は、下町の庶民感覚として自然なものであり正当なものだ。こうした現実的なバランス感覚は、福島にない美徳であり、民主党の前原などにラブコールを送らせる理由でもあるだろう。
もちろん「庶民」だって無条件に正しい存在ではない。大阪人なら在日韓国・朝鮮人や被差別部落民への差別、70年代の解放同盟の糾弾闘争の誤りも、リアルタイムで見てきたはずだ。民衆は善にも転ぶし悪にも転ぶ。ヒューマニズムを唱えて「民衆の本音」を封じるだけでは、世代間対立もジェンダー間対立も進行するばかりで、権力の推し進める分断統治を打ち壊すことはできない。
まあ、清美もみずほもがんばれ。保坂、ついでにおまえもな、ということに尽きる。テレビのインタビューに、「彼女は仲間ですから」と悄然としながらもきっぱりと答えるみずほ党首の表情は、必ずしも悪くなかった。こうして「個人の肉声」が聞こえてくるところが、共産党にはない、社民党の救いかもしれない。
30日夕方の追記。コメントをいただき、こんな言葉を思い出した。今も指針になっている。
「新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。」
太宰治「徒党について」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1605_18109.html
「党」にフェティシズムは要らないのです。