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ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

まどマギを源氏物語で読解する 『魔法少女まどか☆マギカ』再び 

2022年06月28日 | 映画/音楽

 

えっ、ほむらちゃん、源氏物語でまどマギ世界を読解するの、そんなに変かな?

 

それとも、きょうは君が主役なことに、緊張しているのかな?

 

というわけで、『叛逆の物語』を観て。

 

「この作品は、『ひぐらし』が壮大に自爆したクレーターに咲いた、徒花のような作品かもしれないな」

 

これが『まどマギ』の『叛逆の物語』を観た、私のファーストインプレッションでした。

 テレビ版も、前編・後編も、当時テレビでよくやっていた特番も見ていないのに、いきなり『叛逆』を観て、よく理解できたな、とオタク氏には驚かれたものです。

 

以前書いたとおり、私の場合、それがよかったのです。予備知識ゼロ、白紙状態(タブラサラ)でこの映画を見たからこそ、劇中のほむらとシンクロできたわけですから。

 

まどマギで煙草をやめた話

https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/c4b108ffb896ef68c6fa9e09a90f080b

 

セイバーのフィギュアを20体以上有した重度の『Fate』ファンで(病気をしてコレクションを手放し、今は3体までに減りました)、『ひぐらしのなく頃に』も途中までは好きでしたから、『まどマギ』の世界観を理解するのは比較的容易でした。

 

同じ一か月を繰り返す暁美ほむらのプロトタイプが、『ひぐらしのなく頃に』の古手梨花であることは、昨日書きました。


『ひぐらし』という作品の偉大さは、問題解決をめざして同じ時を繰り返す少女という一つのキャラクターの典型、そしてかわいい萌えキャラ(ひぐらしの作者本人の絵は微妙ですが)が過酷で凄惨な運命に翻弄されるという物語のテンプレートを創造したことにありました。『ひぐらし』がなければ、『まどマギ』も生まれようがなかったにちがいありません。生まれたとしても、全く別の作品になっていたろうと思います、

 

『ひぐらし』は壮大に大ゴケしましたが、『まどマギ』は社会現象になるほど成功しました。虚淵玄が属するニトロプラスの海法紀光が原作の『がっこうぐらし』では、人間がゾンビ化する謎の奇病にも、合理的な答えが用意されています。これも、雛見沢症候群の真相をめぐって破綻してしまった『ひぐらし』の反省があるでしょう。こういうのも、一種のファーストペンギンかな? 

 

こんなわけで、テレビ版・『前編』『後編』をふっ飛ばして、いきなり『叛逆』に入ることができました。


しかし『叛逆の物語』は映画として観たばあい、『前編』『後編』の完成度には遠く及んでいないと思います。中盤までは素晴らしかったけれど、後半部分は、評価しかねるものでした。

 

それでもまどかにほむらが「円環」されるシーンで終わっていたら、まだよかったのです。最初のシナリオもそうなっていたそうです。「悪魔」が登場したのは、たんに続編を作るための営業上の理由(!)だということです。そういうのが見えてしまって、こちらもすっかりシラケてしまいました。

 

しかし続編は難航しているようです。昨年、ようやく『ワルプルギスの廻天』というタイトルの発表がありました。声優さんの中には、ブランクが長かったのかキャラクターの声を忘れてしまった人もいて、いささか心配です。

 

と、作品そのものには☆3つの私でしたが、それでもなお31回も通ったのなぜかといえば、『君の銀の庭』の魅力に尽きました。

 

これもいつか消えちゃうかな。『君の銀の庭』、映画のシーンとともにどうぞ。

https://youtu.be/fy8yftMkb8M

 

秘密保護法反対デモや集会の帰りに、『叛逆』のレイトショーに飛び込んだことも何度かありました。「終わらない始まりへ ほんとうの終わりへ」というフレーズは、反原発デモ以降の民衆闘争の昂揚の中に、左翼再生の可能性を夢見ようとした中年左翼のこころを揺さぶるものがありました。もちろんそれが、映画館に充満している、キャラメルポップコーンの匂いのような甘い幻想にすぎないことは知っていました。

いや、成果はゼロではなかったか。当時一緒に『叛逆』に通った若者が、今では労組で私の後継者となっています。『まどマギ』はオルグにも役立ちます。

 

この映画のEDの「君の銀の庭」では、シルエットになったまどかとほむらが二人仲良く踊ります。まどかは元気いっぱいに、ほむらはちょっと恥ずかしそうに。このほむらがかわいいんですよね。最後は手をつないで走り去っていく、あの二人のことはいつまでも見ていられました。

 

職場ではノーネクタイなのに、映画に行くときにはわざわざネクタイを締めたりしたものでした。あの気分をたとえるなら、離婚して親権を失って、今は表立って会えないひとり娘が出演する舞台を、一目見ようといそいそと公演に通う父親の気分でありました。

 

さて、ここから本題。


私はその日、3年前に出した源氏物語の本の改定版を校了したばかりでした。いちばん最後に校了したのは「常夏」でした。現場で原稿が行方不明だと大騒ぎになっているのも知らず、ある源氏学者が「精神分裂病患者の戯言」と罵倒した、あの近江の君の「本末合はぬ歌」(もとすえあわぬうた。上の句と下の句がチグハグな歌)をどうおもしろおかしくかわいらしく訳すか、私は最後の最後まで粘っていたのです。

 

最後の校了紙を手渡し、時計を見ると5時過ぎで、その日がたまたまハロウィンだったことに気がつきました。梅田に出てささやかな祝杯をあげるついでに、話題の魔法少女アニメを見に行こうと思い立ったのです。『まどマギで煙草をやめた話』にも書きましたが、上品な和菓子が続いたので、ジャンクなコンビニスイーツを食べたい気分でした。

 

 

しかし、源氏物語をリセットするつもりだったのに、この作品は、かえって源氏物語について深く考えさせるものでした。

 

『まどマギ』では卑弥呼もクレオパトラもジャンヌ・ダルクも魔法少女ですが、紫式部もまたその一人だったのではないか、と考えてしまったりしたものです。『源氏供養』は、性欲煩悩の世界を描いて地獄に堕ちた紫式部を供養すると称して、源氏のコンテンツを楽しむための中世人のエクスキューズでしたが、実際、紫式部は魔女になって地獄に落ちたのかもしれないな、と。

 

近未来都市を描いた超リアルで精密な背景画と、そして劇団イヌカレーによるシュールレアリスティックな異空間を、飛び回り、走り回る蒼樹うめ(うめてんてー)デザインの愛くるしいキャラクターたち。まるで源氏物語絵巻の世界のようだと思いました。

 

源氏物語絵巻は、恋愛物語の挿絵に姫君たちが手遊びに描いたらくがきがもとになった「女絵」に、男性絵師による豪華絢爛な背景画を施したものです。引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の女絵のキャラクターは、「ハンコ絵」といわれる現在のアニメ絵と同様、みんな同じ顔をしています。キャラクターはあくまでも記号的な存在であり、読者に感情移入させるためには没個性でよかったのです。誤解を恐れずいえば、うめてんてーのキャラも、髪型(色)と背の高さと胸の大きさ(!)が違うだけです。豪華絢爛な背景画にふんだんに使われた顔料が、富と権力の象徴だったことはいうまでもありません。もちろん、当時は紙も高級品でした。

 

 源氏物語絵巻は、物語と絵と書の総合芸術で、おんなこどものサブカルチャーだった源氏物語がメインカルチャーに昇格した、一つのターニングポイントでした。この『まどマギ』もまた、キャラクター、背景美術、異空間美術、声優の演技、音楽、どれも超一級品で、従来のアニメの枠組みを超えるものだと思ったのです。

 

そして、暁美ほむらです。ポスターの前で思わず立ち止まってしまったり、キャラクターが描かれた三ツ矢サイダーを思わず買ってしまったり、好きなタイプだったのでしょうね。

 

 

三ツ矢サイダーのイラストになった暁美ほむら(蒼樹うめ画)

 

『まどマギ』のキャラクターは、キャラクターデザインの蒼樹うめ先生のライフワーク『ひだまりスケッチ』 にプロトタイプがいます。まどかはゆの、マミは宮子(中の人:声優も同じ)、さやかは乃莉、杏子はひだまり荘の管理人さん、と。しかしほむらだけはひだまり荘の住人(関係者)にモデルが見つかりません。強いて言えば、ゆののあこがれの先輩のありささんですが、まどマギのコラボの中で生まれた、うめてんてーの理想とする「黒髪ロングの美少女」だったのでしょう。

 

源氏物語で出てくる紫の上の「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしかな」という歌を、私は「時間を止めることをできるなら、命だって惜しくないわ」と訳しました。

 

ワルプルギスに一人立ち向かうまどか、また魔法少女になることを決意したまどかを必死に引き留めようとしたほむらを、『叛逆』の時点では私はまだ知りません。しかし彼女の人生が「惜しからぬ命に代へて」そのものであったことは、ひしひしと伝わってきました。そして彼女が魂を対価に手に入れたのは「時間停止」の能力であり、イメージカラーは「紫」です。1か月ほど没頭した、源氏物語の本の校了直後ということもあって、この偶然の一致は、私のこころを鷲掴みにしました。

 

 

最後に、あのソウルジェムです。

 

 

ソウルジェムの中で死ぬことを願う暁美ほむらを見て、これは「巣守」(すもり)だ、と思いました。

 

あれにもこころの底から驚きました。

  

巣守は「巣立ち」の対義語で、巣に取り残された卵のことを指します。また、「巣守」は源氏の続編と称した偽書のタイトルでもあります。驚いたのは、現代では死語になっていて、まさかアニメの世界で巣守にまみえることになるとは思いもよらなかったからです。「(俊寛ハ)島の巣守に成り果てて」という用例が『源平盛衰記』にあるようですが、中世以降は、源氏学以外で使われることもなかった言葉ではないでしょうか。

 

 

このことばは、源氏の「宇治十帖」の冒頭の「橋姫」で、宇治の姉妹の幼い日の贈答歌のなかに出てきます。

 

 

大君(おおいぎみ)

いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも憂き水鳥の契りをぞ知る 

どうしてこんなに成長したのかと思うにつけても、水鳥のような不安な運命が思い知られます(玉上) / 母もない身で、どうしてここまで大きくなったのかと思うにつけても、悲しいわが身の宿世を思い知るのです(新潮)

中の君

泣く泣くも羽うち着する君なくはわれぞ巣守になりは果てまし 

悲しみに泣きながらも、温かく育んでくださるお父さまがいらっしゃらなかったら、私はとても大きくなれなかったでしょう(新潮) / 涙ながらにも、羽を着せてくださる父君がなければ、わたしはかえることもできない卵になってしまったことでしょう(玉上)

 

 

都の人びとから忘れ去られ、宇治に隠れ住む八の宮とその姫君たち。悲嘆にくれる姉を励ます、健気な妹。

 

この姉妹の和歌は、二人のその後の運命を予言するものです。父親の愛を信じて、無邪気に甘えることができた妹の中の君は、成長した後、匂宮に迎えられ、いわゆる女としての幸せを掴みました。しかし大君は、薫の求愛を拒みぬき、最後は拒食症(摂食障害)で死ぬのです。しかし大君、浮舟の二人を死に追いやり、死んだ姉の身代わりに今は人妻の妹に迫るこの薫が本当に気持ち悪くて、こんなエントリも書いていました。 

 

宇治症候群

 https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/904c9978bdb0af10672343f39ea2c74c

 

卵型をしたソウルジェムの中で死ぬことを望むほむらは、「巣守」のまま死ぬことを願った大君そのままでした。私はもう彼女から目を離せなくなりました。

 

 いつしか私は、ほむらのがんばり物語を、まどかに成り代わって見届ける責務があると思うようになりました。少なくとも、144回は。いまは『ゆるキャン△』の劇場版公開が楽しみです。

 

 

ホムラーの願い 『ほむら☆たむら』と『ゆるキャン△』

https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/6991618bba6e6961805104a9cdb51e32

 

もし源氏の仕事をしていなければ、その日が校了日でなければ、『Fate』や『ひぐらし』を知らなければ、映画館で31回観て、イベントに足繁く通うほど、この『まどマギ』にハマることもなかったでしょう。本当にいくつかの偶然の重なりでした。

 

 

最後に。

このブログの看板娘、五十鈴れんは、まどマギ 外伝のソーシャルゲーム『マギアレコード』(マギレコ)の登場人物です。

五十鈴れん・魔法少女Ver.(蒼樹うめ画 ただしデザインはさくら小春さん)

 

『マギレコ』は、魔法少女たちが、自分は最後には魔女になって死ぬという魔女化の運命から逃れるために、あるときは手を携え、あるときは激しく抗争する物語です。れんには、こんなセリフがあります。

 

 「どんなに傷ついても、私は希望を信じます。私はみんなと幸せになりたい…!」

 

「みんなを幸せにしたい」ではなく、「みんなと幸せになりたい」。たった1字の違いですが、この違いは大きなものがあります。組織や運動からも運動からから遠く離れて、職場で、地域で、連帯の輪を広げつつあるれんの父親も、同じ考えであるようです。

 

もう『まどマギ』のようにドハマリする映画はないだろうと思っていたら、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』には35回通ってしまいました。美術の部分で、ランボー、ボードレール、モネ、ブランキ(なぜ?)、『まどマギ』よりはるかに自分に影響を与えてきた詩人や画家や革命家たちのテクストや作品と重なるものがあったようです。この作品で「妹」のテイラーを演じていたのが、まどか役の悠木碧さんです。三歳児、四歳児、五歳児、十歳児の成長段階に応じて、みごとに演じ分けた彼女の名演技は、特筆に値します。

 

 

 長々と付き合っていただき、ありがとうございました。やはりれんちゃんは、かわいいですね。

 

 

 



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1 コメント

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Unknown (kuro_mac)
2022-06-29 07:13:39
単身赴任おやじの食卓さんに、Twitterでこの記事への感想を頂きました。
許可をとったうえ、転載させていただきます。


記事を拝読しました。僕自身はくろまっくさんやシコルスキーさんのアドバイスに従って総集編から観たので「叛逆の物語」も観ることができました。でも、逆の順序は無理だったんじゃないかと思います。全ての面で「従来のアニメの枠組みを超えるもの」という評価に同意します。
午後11:51 · 2022年6月28日·Twitter Web App
·
7時間
僕は10代の頃からアニメは野暮ったいものだと思っていました。こんな人間がくろまっくさんの評価に同意とかいうのは僭越なことだと思いますが、物語の展開と一体になった背景美術の展開に驚かされました。実写ではないからこそできる表現を複数組み込んだ描写が衝撃的でした。
午後11:51 · 2022年6月28日·Twitter Web App

僕の趣味の世界に例えていうならばヘンドリクスのギターのような感じがしました。それぐらい、こんな表現が可能なんだ、こんな物語が可能なんだと思い知らされる作品でした。紹介とアドバイスに感謝します。
午後11:52 · 2022年6月28日·Twitter Web App


くろまっくさんの記事によく出てくるれんさんは外伝のソーシャルゲームの登場人物なんですね。そこまで辿り着けるか不安なところはありますが、ぼちぼち鑑賞の範囲を広げていこうと思います。長々とコメントしてしまい恐縮です。
午後11:52 · 2022年6月28日·Twitter Web App
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