新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

ホルモン余話

2022年02月22日 | 毒男のグルメ
先夜、「モツがあまり好きでない」と書いたけれど、それは大人になってからの話だ。

以前、ゲームアンドウォッチの思い出話で書いたとおり、新潟から名古屋に移ったとき、わが家は焼肉とホルモンにすっかりハマった。世の中にこんなうまいものがあったのかと思ったものだ。マンションの目の前にあった洋食屋さんの鉄板のまま熱々のまま出てくるデミソースをかけ目玉焼きを乗せたハンバークとともに、焼肉やホルモンは「都会の味」であった。私たち家族はすっかり太ってしまった。

新潟にも在日朝鮮人のコミュニティはあった。新潟には南朝鮮の総領事館があり、ソウルとの航空定期便もある。そして、万景峰号の寄港地だった。保育士だった伯母の保育園にも、在日の園児たちが通っていた。伯母はいつも青鼻を垂らしていた──くん(伯母は名前を覚えていたが、私は忘れてしまった)の鼻に口をつけて鼻汁を啜ってあげた思い出話を私に聞かせてくれたものだ。

焼肉料理やキムチが日本家庭に普及するのは、米倉斉加年氏の「モランボンのジャン」がCMに流れた1979年頃からではないかだろうか。ちょうどわが家が名古屋にいて焼肉やホルモン焼きにハマっていた頃である。しかし当時は今よりも朝鮮に対する偏見と差別は根強く、モランボンのCMに出た米倉氏は一時テレビの仕事から干され、お子さんも学校で「朝鮮人」といじめにあったという記事をネットで読んだ。全くなんということだ。いまや韓流は少女や元少女たちの憧れの対象なのだから、隔世の感がする。

焼肉やホルモン焼き、キムチを知ったのも名古屋に移り住んでからだったが、ニンニクも新潟時代はあまり食べた記憶がない。ときどき良い服を着て出かけていく中華レストランがあったけれど、餃子を食べたことがあったかどうか、記憶が判然としない。餃子そのものも、名古屋に出てからではなかったか。新潟時代は、風邪を引いた時に、祖母がオブラートで包んだニンニクの擦り下ろしたのを飲ませてくれた記憶がぼんやりとある程度である。

ホルモン焼きを食べたのも、農業事業の立ち上げを手伝ってくれたA君に誘われ駅前のホルモン焼き屋に寄ったのが、最後である。A君がまだ労組の執行委員で、3人めのお子さんが生まれてお連れ合いに禁酒令が出される以前だから。もう3年か4年前である。

モツは好きでないといいながら、あの煙と匂いに惹かれるままに、私もその店に二、三度寄ったことがあった。しかしその日がその店に立ち寄った最後になった。その日食べたガツだったかセンマイだったかに、いやな臭みと、ねばつきを感じたからである。あれはまだ暑いころで、A君が終電時間を気にする時間帯だった。熱暑に鮮度が落ちて、腐りかけていたのかもしれない。本当においしいホルモンを食べたいのなら、ちゃんと管理のできているお店に、宵の口に行かねばなるまい。まあ、焼肉やホルモンのタレは、塩分も糖質も多そうで、滅多に通えるものではないが。

味覚が変わってしまう問題については、また稿を改めてみたい。







今日は父行きつけのぉかぁさんのぉ店で、とん平焼きをぃただきました…はぃ! 父はまた焼酎のぉ湯割りです…はぃ。


最後の締めは鉄板で焼いた特製炒飯です…はぃ! とっても優しくてホッとする味です…はぃ! 

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