今回、歴婆になった、大きなきっかけは、
崇神天皇が大田田根子を祭祀者?として
大物主を祀った・・・というところで、
田田がヤハウェを祀るという「暗号」ではないか?
12支族を集め、イスラエルを建国しようとした?
と、いうことを、考え始めて
迷い道に入ってしまったわけだけど・・・
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの
のページの写真をみると・・・
南面には35文字。神代文字である神宮文字と阿比留文字の組み合わせで、 そ こをやき よ きちほれ し もとく ひわのかみのりよ し ふきあえす ね つきよだい てむだ 『この場所を焼き、大地を耕せ。霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ。これは不合25代天皇の言葉である』という訳になるらしい。つまり焼き畑農業のすすめを記したものらしいのだ。 大分県には『上つ記』(大分県立図書館蔵)という神代文字で書かれた古文書が存在している。 |
代理は
し ふきあえす
ね つきよだい
てむだ
の部分。
つきよだいにあたる部分。
二王田(口の中に田)ス
が、2王(二人の王?)田(祭祀)す。
と、読めて仕方がない。
神宮文字と阿比留文字というのも、
2王にあたるのではなかろうかとか?
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と、まあ、こんな風に横道にそれて、
一番、最初に思っていた「疑問」を意識し忘れていた。
それは、最初の大物主もそうだけど
(大国主命の前に現れたときも)
崇神天皇が告げられたこともそうだし・・・
なにかと、他の神話は無論、
キリスト教徒とても・・・
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その疑問とは・・・・
「なんで、神様?が、自分を祀れと要求するのだろう」と、いうこと。
それも、たいてい条件付きで・・・・。
祀ったら・・・良くしてやろう(良くなる)・・とか・・・
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人間でさえ、(昔)多く世の中に尽くした人など
ー神様ーとして祭られる事例がある。
誰だっけ・・・治水したり・・土木事業などした江戸時代の人・・
地元に行けば、「神様」として祭られている。
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なにか、「祀らなきゃいけない」という
裏側にあるのは
その祀人(神)が、祟りを起こさないために
慰霊?しているかのように思え始めてきた。
なので、神様?が、自分を祀れ と、いうのは
どうにも無性に腹立たしいことがあるので(恨み)
その「恨み」の念を平らにするために祀ってくれないと
その思いがでてきてしまい
「良いことにしてあげることができなくなるので」
祀ってくれたら・・・という
神様も、自分の気持ちの清算が出来なくて
恨み?を持て余しているのか?と思えてきてしまう。
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まあ、実際のところ、よく聞くのが
自殺者(その思い方によると思うが)は
死んだら、「その思い」がずっとついてくる。
と、いうもの。
苦しいという「思い」で、死を選んだら
「苦しい」という思いが一時も離れないという。
生きていれば、どんなに苦しくても
「絶対、違う事を思う」
例えば、ー喉乾いた
今、何時だろう
トイレ行きたい
とか・・・
「苦しい」とは、違う事を思う。
それが、「苦しい」から逃げようとしたはずなのに
「苦しい」しか、思わなくなる。
と、いうような話がある。
これは、生きているときより、よほど苦しいだろう。
神様?もそうであれば
その思いが晴れないと、どうにもならないのだろう。
なので、祀ってくれ。
「許す気持ちにさせてくれ」というのが、最初になるのだろうか?
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そう考えると、
キリストが、欲や裏切りや利己・保身・・エトセトラで
殺されたことを考えると
それをあてがわれたことを
返してくるだろう、と、思う。
質量保存の法則ではないが、
「しでかしたことは、いつか、自分に帰ってくる」
と、いう「自然の法則」が当てはまってしまうのだろう。
別段、キリストが報復するわけでなく
自分がしでかしたことが本人に帰ってくる。だけなのだが
相手(キリスト)がでかすぎたというか・・・
個人対個人なら、帰ってきたことが例え,死であっても
その個人だけで、終わる。
個人ばかりでなく・・・
民族や国や考えや精神・・・
そこまで、範囲に入り、かつ、
その霊統に及ぶ。
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キリストが
「右のほほを打たれたら、左のほほをさしだせ」
とか、いったというが・・・
これも、
この恐ろしい自然の法則
「しでかしたことはいずれ、自分に帰ってくる」ということを踏まえていたのだとしたら
キリストをたたけばたたいたほど、いずれ、その「心」(自分の心)が形になって帰ってくる。
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ただ、ひとつ、許される方法があるとしたら
「改心」と「詫び」という事になるのだろう。
これは、王任三郎も似たようなことを言っている。
相手をやっつけるんじゃない。改心さすのじゃぞ。悪者もよく祀ってやってくれよ。
とか、いう内容。
そのキリストに向けられた「悪い心」を
キリストはそのままに受け止めたから、
贖罪を拭ったというだけで、
問題の「自分がしでかしたことは、いずれ、自分に帰ってくる」
と、いうのは、自然の法則なのだから、
キリストではどうしようもない。
と、考えると
ヨハネの黙示録は、そのまま、起きることだろうと思う。
それが、
例え、自分の先祖・祖先が行ったことであっても・・・
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それを、救い出そうとしたのが、
もしかしたら、仏教かもしれない。
先祖供養とか、因果応報とか・・・
先祖がしでかしたことでも、自分の代で詫びていかなきゃならないのだろう。
そして、恩恵については、しっかり感謝する。
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そこを、非常に都合よくとっていると思うのが
「懺悔すれば許される」
「贖罪はキリストがぬぐっている」
と、いう改心のないままに入る場合がある。と、いう事。
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念仏唱えれば極楽浄土に行ける。
と、いうのも、そこだろう。
念仏を唱えなきゃならないような
地獄に落ちるかもしれない「悪い思い」を
自覚して、改心するのが、本当で
念仏唱えりゃ、というわけではなかろうと思う。
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キリスト教徒が行った
神の名において・・という
いろいろな虐殺
裏を返せば、選民意識がいきすぎた結果
人を人と思わない。
排他的な一神教がまきおこした悲惨を棚上げして
9:11テロという同じ形での
排他的な一神教がまきおこした悲惨に、報復する。
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キリストが悪いというのではない。
どの時代でも、どの国でも
多かれ少なかれ
神・あるいは錦の御旗をわがものにしてしまう人間?がいる。(いた)
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それも、いずれに、
「しでかしたことは、帰ってくる」
そんな時代に突入しているのは、間違いない。
と、今回のタリバンを見ていて思った。
もしかすると、これも、
ヨハネの黙示録に書かれている「あの部分」だろうかとも思う。
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少なくとも、キリストにしでかしたことが
そして、自然に対してしでかしたことも
ほかにももろもろ・・・
「しでかしたことは、帰ってくる」
そして、それが、帰り終えるまで
混沌と混迷は続くのだろう。
だが、それが、帰ることが、必要な時期になってきているのだろう。
次元のはざまに、うずたかく積まれた
「しでかしたこと」は、もう、きれいに「無」になりたがっているのだと思う・・・
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