再添付ですが・・・。
少し前に考えていたことがあった。
前方後円墳がなぜ、かくも、巨大化し・・
かつ、突如として、前方後円墳が作られなくなったのか?
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先日、日本人のルーツとして考えられている
縄文人と弥生人のほかに、
「古墳人」ともいうルーツ(流れ・原型?)がある。
と、いうことが、DNA解析などで、わかってきた。
と、いう。
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そこで、元の添付に戻る。
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まったく、この方には、頭が下がる。
古墳はどう使われたのか? - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
日・月・剣ではなく、日・月・星ではないか?
で、星にあたる「者」が特定できない。
で、保留としていたのだけど・・・
古墳はどう使われたのか? - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
を、読むと・・・
まず結論から先に書きますと、
前方後円墳とは、
「死者の魂が、天之岩船に乗って、星へと帰ってゆくための、離脱ポートである」
ということ。
いきなりSF的になってきましたが、ちゃんとした根拠があり、『ウエツフミ』の随所に残された記述からこれを説明できます。
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全ての古墳が全くバラバラな方向を向いて造られているのはなぜでしょうか?
天照大神の教えには「人は死んだらみんな星になる」とあります。
つまり、日向族にとって死後の世界とは、高天之原=宇宙空間のことなのです。
ちなみに、良いことをした人は高天之原に戻って「星の守(カミ)」となり、悪いことをした人が行く場所が「黄泉の国」だったのです。
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多くの石棺が船の形をしているのは、なぜでしょうか?
それは、死者の魂がこの船に乗ってあの世に旅立つからです。
だから石棺は船の形をしており、それが【天之岩船】と呼ばれたのです。
なぜそれが分かったのかというと、この近くの古墳から盗掘されたとされる「王ノ瀬石棺」が安置されていた場所には「天之岩船神社」が建っていたいたからです。
つまり、天之岩船神社のご神体が【天之岩船】つまり石棺だということ。
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だいぶ、たってから豊国文字で書かれたということもあるのだろうけど
前方後円墳の用途?や特徴などを書いているので、
一瞬、考えてしまったけど
ウガヤフキアエズ王朝には、
前方後円墳はない。(と、考えられる)
(なので、猶更、この王朝がかき消されてしまったのだろう)
ある山に陵(みささぎ)として
墓があり、石棺はある。
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つまり・・・
ウガヤフキアエズ王朝は、
すくなくとも、「古墳人」ではない・・・
と、いうことになる。
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そこで、気になるのが
継体天皇である。
福井の方では、ウガヤフキアエズ王朝で使われた
ピンク色の花こう岩(名前忘れ)とは違う
シャクダニ石という花こう岩(青色系)で作った石棺が見つかっている。
さては、継体天皇は・・・
なにかしら・・ウガヤフキアエズ王朝に関わるルーツがあるのではないか?
と、考えていたら
別途、天皇継承したせいか?
前方後円墳とおぼしき「陵」が比定されている。
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この部分が?であったのだが
「朝廷」を一時牛耳ったのが
「古墳人」であるのなら・・・
継体天皇の陵が、前方後円墳にならざるを得なかったのかもしれない。
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そして、故郷?となる福井あたりでは、
山にて「墓所」とし、
シャクダニ石という花こう岩を
石棺としている。
と、するなら、
縄文人・弥生人・・・という区分けとは違う
石棺(山墓所)型と前方後円墳型の
ルーツというか・・・
考え方の違い、と、いうか・・・
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古墳人は・・・
まだ、細かな発展・変化、が
判らないところであるが
前方後円墳の最初は
どうみても、子宮と羊水
という形に見える。
そのような「古墳人(初期型?在来族?)」
と、
どこかで、でっかい古墳(例えばピラミッドとか?始皇帝の墓所とか?)を
作った民族?が、日本に来て
でかいものは、権威の象徴・・として
巨大な後円墳を作ったと思われる。
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一方で、ウガヤフキアエズ王朝は
前方後円墳・・は作らなかったらしいが・・・
民の方から、「年貢をうけとってほしい」と
申し出たことがあった・・・と、いうほどに
民の暮らしを考えていたようなのである。
つまり、民のことを考えたら
前方後円墳などを作るということは
負担・無駄でしかないというような?
民ファーストであったらしい。
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当然、古墳人=勢力拡大を狙う
と、いうパターンであるのなら
民ファーストなど、もっての他。で、あったろう。
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出雲大社がピラミッド内部の機構とおなじであるということから
考えても、
どこか・・・
どこかで、でっかい古墳(例えばピラミッドとか?始皇帝の墓所とか?)を作った民族?
が、居たかもしれないと思う。
が、ここも、権威的なものより
治水や製鉄・稲作?などなど
いわゆる、インフラ整備のほうがさきだったと思える。
すると、まだ、出雲の初期ころは、
「古墳人」の一派?勢力拡大を狙うという状態はなかったと思う。
いろいろと、沖ノ島あたりの
貿易とかが整ってくると
「古墳人」が乗り込んできて?
ー勢力拡大ーと、なってきたところがあろう。
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まだまだ、「古墳人」と呼ばれるルーツについては、
研究中でしかないわけだけど
これが、解き明かされたら
見えにくかった「MONO」がみえてくるのではなかろうか・・・・
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歴史をたぐってみていると・・・
ふと、おもうことがある。
ーそれが、解明されるころまで
自分が生きながらえていられるだろうか?ー
と、いうこと・・・
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