飛騨口碑
『第35代皇統命(すめらみこと)のヒルメムチ命(天照大神)の代になると、飛騨の人たちが全国に広がり国らしく纏まってきました。
ヒルメムチ命も日抱御魂鎮が大変良くできた御方であり、近い将来の事をピタリと当て外した事がありませんでした。
そのヒルメムチ命が日抱御魂鎮中(夢見)に、筑紫(九州)へ異民族が海を渡って来て暴れて元々住んでいる人を苦しめ殺して行き、このままなら侵略されてしまう事を透視したのです。
そこで、飛騨中の人が高山の安川原に集まり相談したのです。
その決定事項とは、
- 外国の侵略を防ぎ、皆が幸せに暮らせるように、皆から敬われている皇統命を中心に日本を一つにまとめる。
- 飛騨は山奥すぎ、冬は雪が多くて国をまとめていくには身動きがとれないのでヤマノフモト(後に大和=畿内)に都を移す。
ヒルメムチ命(天照大神)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は近畿を開拓して、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)の帰還を待つ。 - 邇邇芸命を総大将として、早く筑紫(九州)を平定する。
平定後は、飛騨まで帰らずヤマノフモト(大和)に入って都を開き治めよ。
(想定外、筑紫平定に30年余りも経って邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還した)
全員一致で大方針が決められました。
***********
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまによると
第2代・ウガヤフキアエズ
この人物の別名が書かれていないが、「カムヤマトイワレビコ」という見解が有力。つまり、第一次東征を行った神武天皇である。
(第二次東征は第73代ヒダカサヌ)
病弱で早期に引退し第3代に譲位した後、宇佐で隠居。
ここで、薬学・解剖学などを研究して人民に周知するため西日本を行幸
猿を使って動物実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える
豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する
*******
(想定外、筑紫平定に30年余りも経って邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還した)
は、年代的に↑こちらになるのだが・・・
*******
第73代・ヒダカサヌ
記紀では「神武天皇」と呼ばれるが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。
ただし、その記述内容は記紀よりもはるかに詳しい
実在した可能盛大。
********
73代のほうが、サヌとなっているし
飛騨口碑では、
サヌ命(神武天皇)がようやく浪速に上陸して大和へ向って進んでいたところ、サヌ命一行と長髄彦(ながすねひこ)は互いに相手を敵と勘違いして戦になってしまいました。
その時サヌ命の兄五瀬命(いつせのみこと)が戦死されたので、サヌ命一行は、紀伊半島を回って上陸され(現在サヌの浜と地名になっています)そこから大和へ入られました。
後になって十種の神器を示し合い話し合ってみると共に大事な親戚であり、長い間開拓して都を開く為に準備をして待っていた総本家の皇統命であることがわかったのです。
『日本書紀』に五瀬命を殺した責任上長髄彦を切ったと記されていますが『古事記』には触れていません。
「飛騨の口碑」では、長髄彦は饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻の兄に当たるので、表向き切ったことにして東北ヘ逃がしたと伝えています。
『日本書紀』と飛騨の口碑とどちらが正しいか調査したところ、長髄彦は、家来やその家族を連れて青森の十三湖に入りアラハバキ王国を建てたと地元に口碑が残っていました。
「アラハバキ」の事が書かれている、
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐうし)』は、国を危うくする分裂、反逆精神で書かれた偽書であるが、
山本健造氏は「但し、長髓彦が東北にアラハバキ王国を築いた事は認めます。
アラハバキとは飛騨では髓(すね)を守るために髓に当てる防具の事です。
これは飛騨語であり、長髓彦の遠祖は飛騨の大山祇命である証拠になると確信しています。」と説明。
**********
飛騨口碑を信ずれば、饒速日が生きていたというのであれば、
第2代・ウガヤフキアエズより、前になってくる。
なにか、つじつまが合わないのだが・・・
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまのほうでは、
第70代・カムコロヅテモノベタケ
お后の矢野姫が難産で、夢枕にニギハヤヒが降臨。
「我を祀ればこの子に幸いを授ける」というお告げにより
奈良県の斑鳩山に祀られる。
すでに、「神様?」になっているのだが、
誰か判らず、調べている。
**********
邇々芸命の大和帰還が遅れて、浪速に帰還されたのが神武天皇であって、御東征ではなくて御帰還であったとみるべきです。飛騨口碑
********
口碑は、口伝。
*********
そして、ウガヤフキアエズ王朝実在論さまのほうでは、
【ウガヤフキアエズ王朝】
ニニギの命が「文明」をもたらしたことから「弥生時代」が始まる。
そして、全国を統治する体制が整ったので、これを「ウガヤフキアエズ王朝」と呼ぶ。
*********
◆第2代の別名は、なぜか『ウエツフミ』にも書かれていませんが、もしかしたら「カムヤマトイワレビコ」だったのかもしれません。
⇒別名が書かれていないのは、74人中第2代だけで極めて異例である。またカムヤマトイワレビコとヒダカサヌの2つの別名を持つ第73代も極めて異例。つまりウエツフミの作者もここは迷ったか?
*********
この人物の別名が書かれていないが、「カムヤマトイワレビコ」という見解が有力。つまり、第一次東征を行った神武天皇である。
(第二次東征は第73代ヒダカサヌ)
病弱で早期に引退し第3代に譲位した後、宇佐で隠居。
ここで、薬学・解剖学などを研究して人民に周知するため西日本を行幸
猿を使って動物実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える
豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する
*********
豊国文字の発生がいつごろなのか、
6000年前と書かれているものもあったが、
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまのほうでは、
大分県には『上つ記』(大分県立図書館蔵)という神代文字で書かれた古文書が存在している。『上つ記』というのは、天保2年(1831年)、豊後国大分郡大分町に住む国学者である幸松葉枝尺(さきまつはえさか)により、旧家から発見された古文書で、全文記号のような奇妙な文字、いわゆる「神代文字」というもので綴られていた。時代は鎌倉、編纂者は豊後大友家初代能直となっている。「神代文字」で書かれた古文書の「新治の記」、「高千穂の大宮司の伝書」、「日向国主元雄の伝書」を基本に各地の古文書を総合したものである。「山人族」の研究で著名な三角寛博士の研究によると、『上つ記』の神代文字は「豊国文字」といわれるもので、古来よりサンカと呼ばれる独特の社会を形成し山々を渡り歩く民、山人族のあいだで用いられていたものであるということが判明した。また、さらに驚くべきことに、ウエツフミの編纂者である大友能直が「豊国文字」でかかれた古文書を奪うべく1600人もの山人族を虐殺したという言い伝えを得ることもできたのだ。つまり、元々は山人族の伝承であるということなのである。この古文書に書かれている内容と巨石の文字を照らし合わせてみると、実に驚くべき一致を見た。『古事記』では、神武天皇が初代天皇ということになっているが、『上つ記』によると神武天皇以前に72代にものぼるウガヤフキアエズ朝というものが存在し、その25代になんと「富秋足中置天皇」の名があるではないか。しかし本当にその時代に彫られたものならば、今から8000年以上のものということになり、どう考えても風化していないわけがない。
+++++++++
第25代・トミアキタラシナカオキ
これが(仮に)8000年前(紀元前6000年)だとすると、
第2代ウガヤフキアエズ王朝と矛盾してくる。↓
************
(神武東征)時期的にも、ちょうど紀元前660年頃とピタリと一致します。
⇒ニニギが天孫降臨したときの星座の配置から紀元前800年頃と推定される。
*********
饒速日(イザサワケ)と瓊瓊杵尊を「音」と「文字」で考えると
饒速日(イザサワケ)は「左に分ける」
ににぎのみこと は 「右の命」
そして、奇妙な「兎」
これは、右左伎
右と左に分かれた。と、考えたくなる。
そして、宇佐神宮。
宇佐ー宇はウガヤフキアエズ王朝ととってもいいかもしれない。
つまり、
ウガヤフキアエズ王朝は「饒速日」が元だったかもしれない。
飛騨口碑が、ピラミッドのような山をご神体にし?
天照の出現があるのは、
ノア(ヘブライ人?)による感化であろう。
飛騨は縄文人が多く住んでいたという事であるから
ノアあたりと混血していった可能性は大きい。
そして、飛騨の天照の子供(ニニギノミコト)が
九州を目指す。
********
あるいは、12000年前といわれるノアの洪水が起きる。
ノアの一派が上陸したのが、
おそらく高い山あたり?
*********
邇邇芸命の孫?
海彦・山彦の争いがおきる。
山彦というのは、
ずばり、飛騨一族ということになろう。
そして、海彦は、海部族である。
**********
海部族は、12支族の1支族。
(ゴイ(非ユダヤ人)、ノアの子等、異教徒を抹殺しても良い―あるいは、するべきだという考えを持っていたかもしれない。)
それが当てはまるなら
饒速日は、この時、殺されたかもしれない。
宇佐神宮には、饒速日が封印されている(祟りを恐れて)という話がある。
そして、ニニギノミコトもどうなったか。
むしろ、
邇邇芸命を殺しーその霊がイザサワケ(饒速日)であるかもしれない。
そして、奇妙な「兎」
これは、右左伎
右と左に分かれた。と、考えたくなる。
*******
と、いうより
邇邇芸命を殺しーその霊がイザサワケ(饒速日)であるかもしれない。
うさぎ が、一体化した姿になぞらえていて
これが、「月」に住む・・・
と、いうことは、
邇邇芸命(饒速日)は、月から来た?
**********
よみなおしてきがついた。
**********
邇々芸命の大和帰還が遅れて、浪速に帰還されたのが神武天皇であって、御東征ではなくて御帰還であったとみるべきです。飛騨口碑
********
大和朝廷側は、「邇々芸命」
ウガヤフキアエズ王朝側は、「瓊瓊杵尊」
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまは
あえて、「ニニギの命」と、書いていらっしゃる。
飛騨口碑は、大和朝廷側の神武(サヌ)と直結している。
(つまり、記紀と同じく、日向三代という口碑)
これは、口碑といえども、
塗り替えられているのではないか?
と、いう「疑問」を持っていた。
飛騨の阿田由太神社のことについては、口碑関連の人は
意味合いはよく判らないが、豊かな実りを祈念した名前ではなかろうか
(ちょっと、うろ覚え)と、いうことを書いていて
いわゆる、由緒など、おぼろげな様子だった。
代理が調べたところでは、
崇神が一緒に祀られていたので、
元は違うものだったのかもしれないが
崇神=南ユダ王国関連の12支族の内、と
(大田田根子の「田」の話を以前、書いているので、省く)
考えられる。
阿田由太神社
阿(我は・・という意味合い?)
田(祀る・祭祀)
由太(ユダ(王)?)
つまり、飛騨王朝を搾取したか、塗り替えている。
と、取れる。
このことがあるので、
飛騨口碑を丸のみするわけにはいかない。
と、思っていた。
そして、
**********
邇々芸命の大和帰還が遅れて、浪速に帰還されたのが神武天皇であって、御東征ではなくて御帰還であったとみるべきです。飛騨口碑
********
これは、
ウガヤフキアエズ王朝の第2代・ウガヤフキアエズ
この人物の別名が書かれていないが、「カムヤマトイワレビコ」という見解が有力。
つまり、第一次東征を行った神武天皇である。
(第二次東征は第73代ヒダカサヌ)
病弱で早期に引退し第3代に譲位した後、宇佐で隠居。
ここで、薬学・解剖学などを研究して人民に周知するため西日本を行幸
猿を使って動物実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える
豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する
*******
ニニギ
九州の祖母山または久住山に天孫降臨する
(文献からは特定不能だが祖母山の北側に展開したことは確実)
「二上の大宮」から「大分の宮」に遷都
他に「直入の宮」「大野の宮」「臼杵の宮」などを置く
↓
山彦
山彦が竜宮城を訪れ、豊玉姫と出会って結婚、潮満玉・潮干玉を持ち帰る
大地震の発生により、一族は高千穂町の岩戸に篭る
海彦・山彦がお互いに皇位を譲り合い、海彦は岩戸に篭る
↓
初代・ウガヤフキアエズ
全国に建(タケル)と呼ばれる地方長官を任命
傾山の山頂に埋葬される
↓
第2代・ウガヤフキアエズ(以後、74代まで続く)
**********
ニニギと第2代・ウガヤフキアエズ
で、あるなら、
**********
邇々芸命の大和帰還が遅れて、浪速に帰還されたのが神武天皇であって、御東征ではなくて御帰還であったとみるべきです。飛騨口碑
********
と、いう年代差は、手繰れる。
ニニギが、第2代・ウガヤフキアエズの時代では、まだ、生きていたか、
ひい爺さんのことは、爺さんや父さんがしっているので
話はよく聞いたよ。
みたいな、手繰れる状態である。
ところが、飛騨口碑のほうは、
大和朝廷の神武を指している。
すると、年代が合わなくなるので
神武が本当にいたかどうかという論議になってくるし、
奇妙な欠史八代という存在不明なものも出てくる。
(つじつまあわせ)
大和朝廷の神武は邇々芸命を担いだのだろう。
そのために、ウガヤフキアエズ王朝の「歴」を
多少、もらわなくてはならなかったのではなかろうか?
もしくは、
同じ支族だったか・・・
前の話に戻ってしまうが
飛騨口碑のほうは、ノアの箱舟があららぎ山に漂着した。と、いうわけで、
ノアの系列が入っているのかもしれない。
そして、飛騨口碑によれば、
飛騨から九州にニニギを降臨させた。ということなので、
ニニギはノアの系列になり
これを始祖としたならば、南ユダあたりからみれば
「殺しても良い相手」という事になってくるのかもしれない。
ところが、その考えで行くと、ニニギ=ウガヤフキアエズ王朝=ノア系列
なのだろうから、
「殺しても良い相手」の代を継ぐ・・という考え方がおかしくなってくる。
と、なると、
同じ九州で、
邇邇芸命
と、
瓊瓊杵尊
を、担いだ「部族」が居たという事から、
邇邇芸命信奉部族
と、
瓊瓊杵尊信奉部族
との、争いであろうと思われる。
そして、勝った方が
「大和朝廷の神武」ということになったのだろう。
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまは
最終的には「景行天皇」によって、ウガヤフキアエズ王朝が滅ぼされた。
と、いう推論になっているが、
この「景行天皇」こそが、神武天皇という事なのかもしれない。
その下地を敷いたのが、
崇神天皇ということになってくるのだろう。
秦王国(九州)あたりと結託したか?
邇邇芸命信奉部族+崇神(南ユダの支族?)+秦王国
と、なってくれば
邇邇芸命は正当なものとしてなのりたいところだろう。
******
不思議なのは、なぜに、こうも、「誰か(神?)」の血筋?であることに
固執するのだろうか?
その答えになるのが、やはり、ヘブライ人(古代ユダヤ人)の
神から選ばれた民という選民意識がはいっているからではないか?
と、思える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます