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歴史の中の氷山の下 歴史の中の経緯・1

2024年03月18日 | 歴史の中の「経緯」

歴史のなかに、

大きな疑問というのが、いくつかある。

古代史になると、

実際の年表が判らないことや

確たる証明がないことで、

謎は謎のままに終わりやすい。

だが、

年表に現れていても、

逆に「事実」は判っても、

その「経緯」というのが判りにくい。

 

実際、司馬遼太郎当たりの小説は

「経緯」が、見えてくるので、

実際、事実と言えなくても、

「そうであったろう」と、思わせてしまう。

 

その「経緯」というのが判れば

限りなく「事実に近くなる」のだと思える。

 

「経緯」の中には、

例えば、地方の感情・慣習

その時代・その個人の環境

個人の性格・考え方・感情・・・他

様々な物がある。

 

この「経緯」をさぐろうと、

司馬遼太郎は、現地に赴く。

たとえば、西郷隆盛の在所に赴く。

すると、老婆が、子供のころによく見かけた。

姿にこだわらない人で、でれっとした着流し?で、

犬をつれて散歩していた。

とか、

こんな情報からも、西郷隆盛の「経緯」を量ってみる。

 

また、宇和島だったか。(ちょっと、随所、記憶違いをしている処があると思う)

愛媛県の中でちょっと、異風な文化があるように感じられるのだが

この辺りも

川越の殿様がやってきている。

と、まあ、いろいろ調べていくわけで

たどり着いてしまえば、

例えば、元川越の殿様の川越恋しさ?という

寂しさという「経緯」にたどり着くかもしれない。

 

 

こんな風に、

「経緯」に着目してみたくなったのが

聖徳太子だった。

なぜ、彼は突如として

「仏教」を取り入れ始めたか。

 

最終的に仏教の隆盛に結びつき、

奈良の大仏となってくるにしろ

元のきっかけは

「経緯」だろう。

 

日本には

神道がありながら

何故、仏教を取り入れようとしたのか。

一説に、唐の僧侶にあってから

急に、仏教に傾倒していったようである。

 

だが、それも、不思議である。

なぜ、傾倒していったかが判らないから。

 

このあたりは、どこかのニュースソースサイトからではあるが

「聖徳太子はかなり悲惨な境遇で、育ってきたらしい」

いわゆる、嫌がらせを通り過ぎたいじめに近い状況をくぐりぬけて成人した。

と、言う事らしい。

 

例えばだが、

和を以て貴しとなすの解説】 人々がお互いに仲良く、調和ていくことが最も大事なことであるという教え。 聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。 『礼記』には「礼は之和を以て貴しと為す」とある。

 

この言葉が出てきた「経緯」が、苦労してきた生い立ちにあるとすると

嫌な言い方だが、

「自分が辛抱してきたことが(で)、結果的に「和」になった」

と、いう思いではないかと考えられる。

いじめに負けて、自暴自棄になったり、はかなんで自死したり

あるいは、刃傷沙汰になったり・・・と、なれば

その一族も、自分も今は無かっただろう。

 

例えば、そういう聖徳太子の思いが肯定されたか

それは、良いことだった。と、認識・自覚させられる言葉を

出会った僧が発したか。

認められる・価値としてとらえなおさせられる。

と、いうことであったのなら

聖徳太子が急激に仏教に傾倒していったわけが判る。

 

だが、もっといえば、

あくまでも仮定論であるが

聖徳太子が、悲惨な状況をこらえてきたからこそ

仏教の中に己の真髄を見いだせたのだろう。

 

そして、もう一つ、思うものがある。

歴史の中の

氷山の下といっていいか。

 

ーーー続くーーー

 


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