物部氏は
「日本には古来から八百万の神がいます」
と、申し述べるわけです。
この、発言は非常に重大な意味が含まれていると考えられます。
*********
八百万の神がいる。
と、言う中に、
日の神
つまり、天照大神、と、いう存在も含まれるでしょう。
天皇の祖としてというよりも、
太陽信仰の考えですが、
その発言の中に含まれるおおきな意味合いが
「なぜ、日本の神を基(もとい)にしないのですか?」
その裏は
「天皇の祖であるはずの、天照大神ですよね?」
と、におわせていると考えられます。
それは、つまり、
聖徳太子他・・日本の出仕で、なかった。
と、いう見方も出来ます。
これでは、やばいと・・
日本書記などで、天皇の正統性を作り始めた。
と、考えたくなります。
天理教の中山みきのお筆さきに
「うえつひとは、みな、からびとじゃ」
と、いうのがあります。
事実はわかりませんし、
かりに「唐人」であろうが
現在
国事を担える存在であることは事実です。
(このあたりの細かいことは、機会があれば書きたいと思っています)
その聖徳太子が
「からびと」だったのではないかと考えるのです。
と、なれば、当然、
仏教を唐から、(そのころは、隋か・・)取り入れたい。と、なりますし
どうやら、
この発言により
物部氏は失脚したようですが・・・
なぜ、そこまで、追い込んでしまったかと考えると
物部氏の祖が、饒速日(にぎはやひ)だった事に拠るでしょう。
神武が東方遠征に出かけていくと
大和(近畿あたり?)に
天孫降臨で、先に日本におりたっていた人物(神?)饒速日がいた。
と、あるわけですから、
ーここを、日本書記に書かかざるを得なかったほど、物部氏の勢力もあったと言う事でしょうー
天皇の正統性が物部氏に移る可能性も多く有ったと思えます。
その物部氏の押す
「八百万の神」(あるいは、古神道)を、とりいれるわけにはいかない。
一方の曽我氏については、
ウィキより
渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。
6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。
と、ある。
聖徳太子については、
日本書紀に見られる記述
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
聖徳太子自体が、曽我氏側であったという事に成る。
*そして、今になると、
聖徳太子は実在していなかった。いや、実在していたのか?という
疑問が多く出されている。
どこかで、キリストをイメージさせる
厩でうまれた話。
キリストは石工の子供であったが、
聖徳太子は大工の守護神のように言われている。
時期的にキリストの存在が日本につたわってきたかどうかは疑問であるが
曽我氏より、以前
ヘブライ人が九州に降り立った天孫族であるとするのなら
預言により
キリストの生誕がすでに予見されていたとするのなら
その伝承により曽我氏がまた、聖徳太子の「虚像」に
キリストを重ねたかもしれない。
ーー続くーーー
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます