狭き門より入れ、滅びに至る門は広くその道はたやすく、通る人も多い。
というのは聖書の一説ですが、
新約聖書はなかなか面白い文句が多く、読んでみると結構面白いのです。
聖書を読むことをお勧めします。
なぜかと言いますと、聖書を読むと、キリスト教圏の人たちの根底にある共通認識が理解できるからです。
細切れで読むこともできますから、パラ~っとめくって好きなところから読み始めることもできます。
私の好きな個所は、地の塩、世の光というかなり宗教色の強い部分と、
狭き門より入れの部分、
与えよ(求めよ)、さらば与えられんの部分ですね。
与えよバージョンと、求めよバージョンがそれぞれ書かれているので、聖書の中にどちらも存在しているんです。
聖書の解釈をできる立場に私はいませんが、私なりの見解を書かせていただきますと、
狭き門より入れ、というのは、怠惰に過ごさず、また、安逸な道を選ぶのではなく、自分の意思をしっかり持って困難であっても目標に向かって進むことが大切である、ということだろうと思います。
ハードすぎる道をあえて選ぶのはちょっとどうよ、とは思いますし、
安逸で思慮の浅い生活をするべきではない、という程度の解釈でもいいと思います。
しかし、誰でもそうですが、広き門の広く易しい道を通っている仲間の多い人が、とつぜんその道からドロップアウトして本来進むべき道を探すことはなかなか難しいものです。
でも時々は、この道は安易に流されていないのか、ということを振り返ることも必要でしょう。
私たちの未来は、今、歩いている道の先にあります。
キリスト教徒なら神のみ旨に従って狭い門を選ぶのでしょうが、私はキリスト教徒ではありませんから哲学的に狭き門を選びたいと思います。