test-6
2005年7月2日(土)=8年前の昨日。
恵みの慈雨
昨日から梅雨らしく雨が来た。やっと降ってくれた、人も、植物も、動物もやっと息がつけた。庭の片隅に植えたゴーヤが妻が数えたら9個なってるそうだ、この雨でぐんぐん大きく育つてくれるだろう
隣組長(防犯部)で今日で4回目の夜警で区内をパトロール、雨も小康状態で助かったがまだ雨が欲しい、明日も降ってくれるだろうか。
2013年7月3日(水)雨ところにより豪雨
妻もまだまだ、このころは元気だった。忘れ物ない楽しいころを思い出す。今年ですでに妻の病気も5年目になり、最近は日に日に病気の進行を見る。
2006年8月22日(火)
浅原才市さん
丹羽文雄著 「親鸞」より、
大正時代石州小浜の下駄屋の主人で才市なる男がいた。若い頃は博打もやったが田舎の若者に過ぎなかった。二十歳~五十歳までその間に・・・念仏聴聞を続けた。その後才市はノートブックに二十年間にわたり心の動きを克明に書くことになった。それが六十冊以上になった。
ようやく、いろはが書きうる知識であった。宗教的な感情が高潮してくると
才市は律動的な文学的表現をとらずに居られなかった。・・・・知的教養のない才市としては、詩の形態に表現された。 六十冊以上にも上る才市の
告白の中に、 「わしがねんぶつを、となえるじゃない。ねんぶつのほをからわしのところにあたる、ねんぶつ、なむあみだぶつ」
文庫本の3巻目-p.61
(文庫本の忘れられない所を抜書きしたところより写す)。
才市さんの住居は(島根県)山陰本線温泉津駅の温泉津町(ゆのつ)です。
山陰線で京都まで行って見たかったのを定年で(フルムーン切符で)実現した。特急=列車名は忘れたが、山陽線と大違いで、下関を過ぎて汽車弁当の注文を取りに来たと思う、悠長な旅だった。萩を過ぎいよいよ才一さんの住居の(温泉津駅)海を望む小さな駅を思い出す。そのうち、そのうちに一度、才一さんに会いに行きたいと思いながら、実現できなかった。妻が元気な頃出かけておくべきだった。今では二人での旅どころか、家族とも行けない。
(宿と家が混同してしまうのです)一度見てみたかった、有名な【餘部鉄橋】も写真を写す間もなく通過してしまった。こうして山陰線で京都までの夢を実現したのでした。京都には両親も大谷本廟に納骨しており、私ら夫婦も納骨を子供に頼んでいる。(いつでも会いに来てくれと)
PCの先輩からの元気ですか~~~の電話で元気を頂きました。有難うございました。今日は夫婦の病院予約日でお嫁さんの運転で、お母さんと4人で夕食の(外食)に行く。車の中で以前だったら二人の元気な会話で賑わったのですが、妻の会話が富に少なくなったのです。今日見たテレビの、
オランダでの認知症対策を見て、頷くばかりの放送だった。(認知症ケースマネージャー)早い段階から知り合い信頼関係を作る。また介護者の支援、
世界が注目の(認知症村は)驚きでした。
病院では、先生が私を気にかけてくださることに大きな信頼関係をより一層感じたのでした。また看護婦さんからも元気を頂くのです。今からが大きな試練が待ち構えているだろうと思います。周りの方たちの(心の支援)を頂きながら毎日を乗り切ろう、よろしくお願いいたします。負けてたまるかどんと来いの精神です。
記録=水洗化工事の見積もりをする電話を工事会社にした。明日来るとのことです。
オランダでの認知症対策を見て、頷くばかりの放送だった。(認知症ケースマネージャー)早い段階から知り合い信頼関係を作る。また介護者の支援、
世界が注目の(認知症村は)驚きでした。
病院では、先生が私を気にかけてくださることに大きな信頼関係をより一層感じたのでした。また看護婦さんからも元気を頂くのです。今からが大きな試練が待ち構えているだろうと思います。周りの方たちの(心の支援)を頂きながら毎日を乗り切ろう、よろしくお願いいたします。負けてたまるかどんと来いの精神です。
記録=水洗化工事の見積もりをする電話を工事会社にした。明日来るとのことです。
2008年3月4日(火)
【退院】
今日妻は退院、8日振りの我が家に帰り嬉しそうな表情を見て嬉しさを共有した。今日の天気は最悪冷たい雨の終日、そろそろ退院を医師に相談しようと思って病院に行ってびっくり、昨日まで隣にいたおばぁちゃん(91歳)が病室を変わっていた。そしてもう一人のこの方も(お年寄り)は二日の外泊で家に帰り妻は昨夜は一人だったそうだ。妻の部屋は4階でどの部屋もお年寄りばかり、看護師さんたちの忙しさを感じさせない患者さんへの応対には頭が下がる思いです。
妻から聞いた話では 回診に来る医師は(患者=妻)と話をするときに座って目線で話をすると聞きさすがだと思った。立ち姿での回診は患者さんを見下ろすようでいい感じはしないのです。上から目線では尊敬と信頼はできません、患者さんは先生の一言とお顔で救われるのです。
現在(2015年現在)妻とひと月の予約で行く先生は妻に話しかける姿勢が素晴らしいのです。信頼関係ですね。人に接する姿勢を学びますね。
メッキは剥げます。
2007年8月18日(土)
最近
6月の後半ぐらいから妻の体調が芳しくなく今まで昼寝などしたことの無い妻が疲れると言って横になるようになる。今年の猛暑の所為と思いたい。年のせいもあるだろう。?
買い物に行くようになり(主夫)最近は買い物にも慣れてくる、妻に書いてもらったメモを見ながらの買い物である。60代の頃は隣町まで二人でリュックを背負って買い物をした当時を思うと夢のようである。
70代も後半になると一年に春夏秋冬で4才年をとるように思う、最近は弱気になったりすることが時々あるようになる。しかし持ち前の負けてなるかとも思ったりする。こうしてパソコンができるのもいつまでだろうかと思うこともあり脳の活性化のためにも頑張ろうと考える毎日である。。妻が元気な頃はこうした思いはあまりしたことは無かった。
スーパーで見かける私と同じ年代の男性がかごを持って買い物をしているのを見かけると、この人の奥さんも体調が悪いのだろうかと思ってしまう。夕食の準備も妻を助成する、もともとやればできるのだが、今まで妻にばかりさせていた献立も難しいものを作らなくても見よう見まねで出来る。一番残念なのは旅に行けなくなった事である。(旅は一人でしても楽しいとは私は思わないであろう)秋になり涼しくなって以前のように元気が出ることを期待し祈る毎日である。
2006年9月5日(火)
【気持ちのよいお話】
今日の西日本新聞の(春秋)で久し振りに素晴らしいnewsにお目にかかった。
福島県矢祭町、人口7000人の小さな町のお話で(住民に何が欲しいか)のアンケートで図書館と揚げた人が多かった。試算してみた蔵書3万冊規模で十億円となった。そんなお金は無い、書籍購入費ゼロで図書館を造れないか。一計を案じた。町のホームページで経緯を説明して呼びかけた、「眠っている蔵書の寄贈をお願いします。大事に保存し活用します」「送料は申し訳ありませんが送り主負担とさせていただきます」
謝礼も無い、続々と本が届いた。
愛知県からはトラックで段ボール80数箱分が送られてきた。送り主は全国に居るそうだ。高価な写真集や、手に入りにくい古書もある。8月末現在で15万冊近い。平成の大合併には参加しません。5年前に宣言、合併は財政的には楽になる。苦しくても自立の道を選んだ。議員定数を減らし、町長の給料も課長並みに下げた。
国には変な顔をされたが応援する人の輪を広げた。本と一緒に頑張れの添え状も届く。山と積まれた本の整理は町民のボランテイアで、分類の指導は県立図書館が買って出た。役場近くの古い武道場の床を補強して図書館にする。開館は来年1月、寄贈者の名前を掲げてお礼に代えるという。
2006年8月1日(火)
【心中】
平成14年5月にあった共に八十歳を超える高齢の夫婦の心中で、リュウマチで苦しみ死にたいと言う妻と共に死ぬことを決意しして、お仏壇にも別れを告げながら、心ならずも生き残った八十四歳の夫に対する判決が、佐賀地方裁判所であったことが新聞で報じられていた。裁判官が判決文の最後に被告に語りかけるように述べた。『お浄土に参られた奥さんを思い出して余生を送ってください』と言う結びの言葉と、息子夫婦をわざわざ法廷に呼び入れ、
「お二人でお爺ちゃんを大事にしてあげてください」と言って席を立つ判事を見て、法廷内の者は皆涙したと言う。
多くの人が、救われた思いがしたと思う。*以上【以上お寺での聴聞(法話)より。
以下は、平成18年7月26日(西日本新聞春秋)より、
親子や夫婦間の介護をめぐる痛ましい事件が絶えない。介護疲れと生活苦に絶望した果ての殺人、心中が少なくない。行政などの救済が及ばないところで悲劇は起こる。ことし二月初め、京都伏見区の桂川河川敷で起きた『認知症の母殺害』がそうだった。五十四歳の息子が八十六歳の母を、本人の承諾を得て絞殺した。自分も包丁で自殺を図ったが死にきれなかった。
働いていたが介護にかかりきりで職を失った。デイサービスも受けさせ、生活資金は細っていく。介護と両立できる仕事や、生活保護を求めて行政の窓口を何度も訪ねたという。願いはかなわなかった。『困った事があったら連絡を』といってくれた親族には相談していない
「人に迷惑をかけるな」と父から言われて育った。公判では「人になにか頼むのはつらい」と述べている。お金が尽き最後の親孝行をと母を車椅子に乗せて古里の京都市内を巡った。
河川敷での会話「もう生きられへんねん。ここで終わりや」 「そうか、あかんか。いっしょやで。わしの子や」 「すまんな、すまんな」 先週京都地裁は事情を酌量して執行猶予付きの判決を言い渡した。裁判官は「介護に絡む悲しい事件がなぜ続くのか、裁判所も考えている」と言い添えた。生活保護の制度に血を通わす行政努力は十分になされているのだろうか。(平成23年の今でもこれに似たお話を目にします)
(最近(平成23年の今)眼にした記事の中に、【ケアマン】という記事がありました。男性の介護が増えたとありました。女性は強いです。男性は(わたくし)脆いです)でも最近腹を据えました。どんと来いの気構えと、脆い自分と同居です。友人が私の話を聞いてくれる、頷いてくれるだけで救われるのです。甘えではないと思います。(いつも想う言葉です)経験してみて人のつらさを(人のつらさ等は一等理解してはいましたが)勉強しました。
★今日(7月1日)は90代のおバーちゃんに午前、午後の二回寄り添いました。それが、できるようになりました。何故=?妻の病気で、学びました。
【退院】
今日妻は退院、8日振りの我が家に帰り嬉しそうな表情を見て嬉しさを共有した。今日の天気は最悪冷たい雨の終日、そろそろ退院を医師に相談しようと思って病院に行ってびっくり、昨日まで隣にいたおばぁちゃん(91歳)が病室を変わっていた。そしてもう一人のこの方も(お年寄り)は二日の外泊で家に帰り妻は昨夜は一人だったそうだ。妻の部屋は4階でどの部屋もお年寄りばかり、看護師さんたちの忙しさを感じさせない患者さんへの応対には頭が下がる思いです。
妻から聞いた話では 回診に来る医師は(患者=妻)と話をするときに座って目線で話をすると聞きさすがだと思った。立ち姿での回診は患者さんを見下ろすようでいい感じはしないのです。上から目線では尊敬と信頼はできません、患者さんは先生の一言とお顔で救われるのです。
現在(2015年現在)妻とひと月の予約で行く先生は妻に話しかける姿勢が素晴らしいのです。信頼関係ですね。人に接する姿勢を学びますね。
メッキは剥げます。
2007年8月18日(土)
最近
6月の後半ぐらいから妻の体調が芳しくなく今まで昼寝などしたことの無い妻が疲れると言って横になるようになる。今年の猛暑の所為と思いたい。年のせいもあるだろう。?
買い物に行くようになり(主夫)最近は買い物にも慣れてくる、妻に書いてもらったメモを見ながらの買い物である。60代の頃は隣町まで二人でリュックを背負って買い物をした当時を思うと夢のようである。
70代も後半になると一年に春夏秋冬で4才年をとるように思う、最近は弱気になったりすることが時々あるようになる。しかし持ち前の負けてなるかとも思ったりする。こうしてパソコンができるのもいつまでだろうかと思うこともあり脳の活性化のためにも頑張ろうと考える毎日である。。妻が元気な頃はこうした思いはあまりしたことは無かった。
スーパーで見かける私と同じ年代の男性がかごを持って買い物をしているのを見かけると、この人の奥さんも体調が悪いのだろうかと思ってしまう。夕食の準備も妻を助成する、もともとやればできるのだが、今まで妻にばかりさせていた献立も難しいものを作らなくても見よう見まねで出来る。一番残念なのは旅に行けなくなった事である。(旅は一人でしても楽しいとは私は思わないであろう)秋になり涼しくなって以前のように元気が出ることを期待し祈る毎日である。
2006年9月5日(火)
【気持ちのよいお話】
今日の西日本新聞の(春秋)で久し振りに素晴らしいnewsにお目にかかった。
福島県矢祭町、人口7000人の小さな町のお話で(住民に何が欲しいか)のアンケートで図書館と揚げた人が多かった。試算してみた蔵書3万冊規模で十億円となった。そんなお金は無い、書籍購入費ゼロで図書館を造れないか。一計を案じた。町のホームページで経緯を説明して呼びかけた、「眠っている蔵書の寄贈をお願いします。大事に保存し活用します」「送料は申し訳ありませんが送り主負担とさせていただきます」
謝礼も無い、続々と本が届いた。
愛知県からはトラックで段ボール80数箱分が送られてきた。送り主は全国に居るそうだ。高価な写真集や、手に入りにくい古書もある。8月末現在で15万冊近い。平成の大合併には参加しません。5年前に宣言、合併は財政的には楽になる。苦しくても自立の道を選んだ。議員定数を減らし、町長の給料も課長並みに下げた。
国には変な顔をされたが応援する人の輪を広げた。本と一緒に頑張れの添え状も届く。山と積まれた本の整理は町民のボランテイアで、分類の指導は県立図書館が買って出た。役場近くの古い武道場の床を補強して図書館にする。開館は来年1月、寄贈者の名前を掲げてお礼に代えるという。
2006年8月1日(火)
【心中】
平成14年5月にあった共に八十歳を超える高齢の夫婦の心中で、リュウマチで苦しみ死にたいと言う妻と共に死ぬことを決意しして、お仏壇にも別れを告げながら、心ならずも生き残った八十四歳の夫に対する判決が、佐賀地方裁判所であったことが新聞で報じられていた。裁判官が判決文の最後に被告に語りかけるように述べた。『お浄土に参られた奥さんを思い出して余生を送ってください』と言う結びの言葉と、息子夫婦をわざわざ法廷に呼び入れ、
「お二人でお爺ちゃんを大事にしてあげてください」と言って席を立つ判事を見て、法廷内の者は皆涙したと言う。
多くの人が、救われた思いがしたと思う。*以上【以上お寺での聴聞(法話)より。
以下は、平成18年7月26日(西日本新聞春秋)より、
親子や夫婦間の介護をめぐる痛ましい事件が絶えない。介護疲れと生活苦に絶望した果ての殺人、心中が少なくない。行政などの救済が及ばないところで悲劇は起こる。ことし二月初め、京都伏見区の桂川河川敷で起きた『認知症の母殺害』がそうだった。五十四歳の息子が八十六歳の母を、本人の承諾を得て絞殺した。自分も包丁で自殺を図ったが死にきれなかった。
働いていたが介護にかかりきりで職を失った。デイサービスも受けさせ、生活資金は細っていく。介護と両立できる仕事や、生活保護を求めて行政の窓口を何度も訪ねたという。願いはかなわなかった。『困った事があったら連絡を』といってくれた親族には相談していない
「人に迷惑をかけるな」と父から言われて育った。公判では「人になにか頼むのはつらい」と述べている。お金が尽き最後の親孝行をと母を車椅子に乗せて古里の京都市内を巡った。
河川敷での会話「もう生きられへんねん。ここで終わりや」 「そうか、あかんか。いっしょやで。わしの子や」 「すまんな、すまんな」 先週京都地裁は事情を酌量して執行猶予付きの判決を言い渡した。裁判官は「介護に絡む悲しい事件がなぜ続くのか、裁判所も考えている」と言い添えた。生活保護の制度に血を通わす行政努力は十分になされているのだろうか。(平成23年の今でもこれに似たお話を目にします)
(最近(平成23年の今)眼にした記事の中に、【ケアマン】という記事がありました。男性の介護が増えたとありました。女性は強いです。男性は(わたくし)脆いです)でも最近腹を据えました。どんと来いの気構えと、脆い自分と同居です。友人が私の話を聞いてくれる、頷いてくれるだけで救われるのです。甘えではないと思います。(いつも想う言葉です)経験してみて人のつらさを(人のつらさ等は一等理解してはいましたが)勉強しました。
★今日(7月1日)は90代のおバーちゃんに午前、午後の二回寄り添いました。それが、できるようになりました。何故=?妻の病気で、学びました。
パソコンに眠っていた、沢山の書きものから抜粋してアップ(紹介)してみました。(このころは、毎日の日課でした)。
2007年8月3日(金)
技術立国ニッポン
テレビで見た話です。東京の大田区と言えば知る人ぞ知る技術の町工場の(町)です。
心晴れ晴れ気持ちのいい放送で【町工場ガールズ】若い男女が技術者として入職、職人への一歩を踏み出した。それを支える女性社長さん、今までどれだけ日本の技術を外国に知らしめたことでしょう(プロジェクトХ)でも紹介された大田区の町工場群です。
他国に引けをとらないようこうした若い人たちがいることに拍手と、目頭が熱くなったのでした。
2006年9月17日(日)
規格外の魚たち、
NHKテレビの(勿体無いセット)
なんだと思われるでしょが、今流通業界で規格外の魚が驚く無かれ例えば、23㎝のアジは1キロ当たり=600円 それに対して13㎝以下だとキロ当たり30円で1/20の値段、スーパーなどでは長さの揃った魚をお客さんも好み業者も入れ物にも都合よい。それに料理した魚の内臓等がごみとなる、調理もしやすくして貰えすぐに食べれるる、故にお客さんは好む、
(主婦の皆さんパートから帰って急ぎ夕飯準備をするんだと思えば、なんとも言えません)
しかしです、長い目で将来を見据えた食生活を心がけておかないと大変なことになるんじゃないかと思うような世の中になりつつあるようです。
夫婦で近海を漁業する漁師さんに形の揃った魚が獲れるはずはありません。燃料代にもならない仕事、見ていてそんな事があってるとは勉強不足を思いました。
現役の頃の経験を書いてみました。山陰から国鉄に乗って来るおばさん達の(カンカン部隊)(缶に魚を詰めて背負って行商に行くおばさんたち)缶の中を見せてもらっていました。おばさんたちの会話は楽しく、疲れも癒される【方言列車】で楽しい車中でした。そんなに急いでどこ行くの現代、でも働いている頃は、快速列車はうれしかったですね。勝手な話ですね。
仕事帰りの朝あ(夜勤)、踏切傍の魚売のおじさんの出店から大小様々の魚を買って帰宅していました。美味しい魚が大小選り取りでした。今の時代大小様々の魚を選って買おうにもできませんね(そんな店もありません)最近5年ほど(主夫)で買い物に行き出して、アジ、サバ、イカ、等々あるにはありますが、型が揃っていて違うかな?と思います。
結婚した頃妻が買い物で行く市場の魚屋さんに魚の捌き方を教えて欲しいので、今風で言う(パートでおじさん雇って)と言ったことがあるそうです。
おじさん曰く、そんな余裕は無いからよく見ときなさいと、捌き方や美味しい食べ方を教えてもらっていたそうです。(よき時代だったんですね)
テレビを見ての話で規格外の魚でいいよねと妻との会話です。
今では料理された刺身あり、すぐ食べれるご時勢自給率40%の台所、今こそ魚を捌くことから始めるようにしないと将来どうなるんでしょう。
『魚に限らず、野菜でも言えますよね、味は一緒です』でも料理された魚は有難いです。
前置きが長くなったが(大小さまざまの魚を捌いた「勿体無いセット」で一袋1000円(ずいぶん入っていました)で外食産業でメニュを思索しているそうです。近くに規格外の魚を売る店が欲しいねと妻と話をしたのでした。
野菜では(キュウリ、人参は見かけます)例えば曲がった人参でもキュウりでも味は変りませんよね、ただ見かけだと思います?野菜がかわいそうです。
車を運転していた頃、道路の出店(今の道の駅です)で曲がったキュウリを漬物用に箱ごと買っていました。
午前中ケアマネさんが見えていろいろとアドバイス等でお話しできました。お嫁さんから夕食の招待(妻の84歳の祝い)お嫁さんのお母さん(87歳)も見えて楽しい食事になりました。自分の誕生日?ですがそれでもいいんですね。会話ができ笑顔がでれば最高です。話はこれからの暮らしの事ですね。でも話ができれば知恵も生き方にも元気が出ます。年代年代でふさわしい話に花が咲きます。テレビ等で明るい話、また耳をふさぎたくなるような話が多いです。私たち夫婦はそれなりの生活ができています。(勤めができた会社に感謝です)しかし働きたくても仕事がない。本当に不公平きわまる社会です。
もしも、
私がある日大金持ち(兆円)のお金を持ちました。さて何に使うでしょう。小説でも書ける才能があれば書くだろう>(ある日目が覚めて>>>>)
明るい話はあります。しかし帳消しの=0です。今日の家内はいい日でした。(私も嬉しい一日でした)毎日持続できればな~~~です。私は40年間(電気設備の仕事をしてきました。)泣きたくなるようなトラブル、仲間と必死に復旧です。こんな時の仲間の絆(絆)は大きかったですね。2日は家に帰らない時も経験がんばりました。トラブルが立ちあがり、思わず出る歓声と笑顔、帰りの楽しみはJR内での居眠り、帰ったら布団に寝られる楽しみを思いながらの帰宅でした。妻も私と三交代勤務です。頑張ってくれました。(絆)ほど生きるうえで大事なことはありません。
当時の仲間も皆定年です。この年になって当時を回顧する、不思議に楽しかったことが多いですね。上司や仲間に恵まれた務めでした。日常生活の中に(絆)この言葉が本当に生かされているんだろうかと~~~ふと思ったりもします。いじめのない学校、社会、協力、絆の一言ですね、何を書きたかったのか判らななり~~~~思ったことを書きました。(終)
もしも、
私がある日大金持ち(兆円)のお金を持ちました。さて何に使うでしょう。小説でも書ける才能があれば書くだろう>(ある日目が覚めて>>>>)
明るい話はあります。しかし帳消しの=0です。今日の家内はいい日でした。(私も嬉しい一日でした)毎日持続できればな~~~です。私は40年間(電気設備の仕事をしてきました。)泣きたくなるようなトラブル、仲間と必死に復旧です。こんな時の仲間の絆(絆)は大きかったですね。2日は家に帰らない時も経験がんばりました。トラブルが立ちあがり、思わず出る歓声と笑顔、帰りの楽しみはJR内での居眠り、帰ったら布団に寝られる楽しみを思いながらの帰宅でした。妻も私と三交代勤務です。頑張ってくれました。(絆)ほど生きるうえで大事なことはありません。
当時の仲間も皆定年です。この年になって当時を回顧する、不思議に楽しかったことが多いですね。上司や仲間に恵まれた務めでした。日常生活の中に(絆)この言葉が本当に生かされているんだろうかと~~~ふと思ったりもします。いじめのない学校、社会、協力、絆の一言ですね、何を書きたかったのか判らななり~~~~思ったことを書きました。(終)
デジブック 『菖蒲』
2013年(平成25年)6月、二年ぶりの宮地嶽神社菖蒲園でした。菖蒲苑は手入れがゆき届き訪れる人の目を楽しませてくれます。
苑の所々(古民家)には【匠の館】が出品されて華やかな雰囲気のにぎわいを経験できます。また広々とした場所(苑)には子供連れの家族や、友人の集まりで、にぎわうのです。福津市(津屋崎)の春は(桜)(菖蒲)(ボタン)(アジサイ)の花々の宮地嶽神社です。神社の階段からの海までの直線の道の眺めは最高です。津屋崎の海に沈む夕日も言葉では言い尽くせない眺めです。近くの津屋崎千軒の街並みも気持ちが穏やかに、心が優しくなるのです。
2013年(平成25年)6月、二年ぶりの宮地嶽神社菖蒲園でした。菖蒲苑は手入れがゆき届き訪れる人の目を楽しませてくれます。
苑の所々(古民家)には【匠の館】が出品されて華やかな雰囲気のにぎわいを経験できます。また広々とした場所(苑)には子供連れの家族や、友人の集まりで、にぎわうのです。福津市(津屋崎)の春は(桜)(菖蒲)(ボタン)(アジサイ)の花々の宮地嶽神社です。神社の階段からの海までの直線の道の眺めは最高です。津屋崎の海に沈む夕日も言葉では言い尽くせない眺めです。近くの津屋崎千軒の街並みも気持ちが穏やかに、心が優しくなるのです。
自分のいるところの場所(家)がどうもわからなくなってきて最近毎日の質問(明日帰るでしょう)(私は親に黙って家を出て来た)、心配しているだろう。まだまだ他にも色んな質問をしてくるのです。答え=(毎日が同じ答えのここが家ですよ)(もう我々の親はいません)(浄土に還っています)(浄土)この言葉は判るのです。長年の聴聞がインプットされているんです。人の脳の修復(シーケンスの修復)ができないものだろうか。将来は屹度できると思います。そう思いたい。結婚して年を取りやっ今からと言うときに介護の毎日(男性のケアマン)(女性のケアウーマン)大変です。介護を楽しく~~~到底私にはできません、時々 ノーテンションで脳が破断の時間があるのです。夜ベットに入り寝付くまでが大変です。私は寝室でパソコンです。ひとつ部屋で私の姿、気配がないと落ち着かないのです。まるで小さな子供です。
最近子供からの差し入れが増えてきました。私を気使ってくれるのです。買い物が苦痛になりつつあるのです。膝の痛みはなんとなく緩和してくれました。今日も買い物の応援でお嫁さんが来てくれてほっとしました。時々人が聞いたらなんと思うだろう?私が家内を見送らねばと強く思うようになりました。私の妻へのせめてもの愛情です。私が倒れることは許されません。仏様も理解してくれているようです。
今23時39分です。やっと妻の布団が動かなくなり眠ったようです。ほっとするのです?我ながらおかしくなります。今日も私の鏡は曇るときがありました。(妻の鏡です)反省です。書き出すと取りとめのない事の羅列ですが、書き出すと止まりません、これを読まれる方がいたとしたら、嬉しいですね。屹度理解を頂けると思います。(書くことは苦になりません、)以前(2月~3月頃)はこんな難題は言わなかったのですが)脳の回路が(どこかが)おかしく断線?したと思います。バイパス回路ができるといいだろうなと思います。さて明日はどんな日になるでしょう?もう明日の暦の時間ですね。
最近子供からの差し入れが増えてきました。私を気使ってくれるのです。買い物が苦痛になりつつあるのです。膝の痛みはなんとなく緩和してくれました。今日も買い物の応援でお嫁さんが来てくれてほっとしました。時々人が聞いたらなんと思うだろう?私が家内を見送らねばと強く思うようになりました。私の妻へのせめてもの愛情です。私が倒れることは許されません。仏様も理解してくれているようです。
今23時39分です。やっと妻の布団が動かなくなり眠ったようです。ほっとするのです?我ながらおかしくなります。今日も私の鏡は曇るときがありました。(妻の鏡です)反省です。書き出すと取りとめのない事の羅列ですが、書き出すと止まりません、これを読まれる方がいたとしたら、嬉しいですね。屹度理解を頂けると思います。(書くことは苦になりません、)以前(2月~3月頃)はこんな難題は言わなかったのですが)脳の回路が(どこかが)おかしく断線?したと思います。バイパス回路ができるといいだろうなと思います。さて明日はどんな日になるでしょう?もう明日の暦の時間ですね。
記憶が正しければ食糧難の時代に(米)の看板をあちこちに見かけました、享保17年=1732年の281年前、夏の冷夏と害虫に中国、四国、九州地方
の西日本各地。★【徳川吉宗(8代)】の飢饉で死者が多数出たと見ました。流通の盛んな今の時代に到底考えられません、、終戦後の毎日は十分に
食べることができず、でも死ぬまでもなく83歳の今まで生かされてます。(南無阿弥陀仏)
今日は68年目の、沖縄終戦の日ですね。二度と争いはすまい。しては地球が?と思ってしまいます。
写真の国民宿舎(めかり山荘)す。老朽化で取り壊されています。三年前と10数年前に宿泊し、レトロ門司港(関門海峡)眺めは素晴らしかったのです。
子供にもう一度行こうと請求しようと思っていたのですが、閉鎖を知ったのです。古城山からの関門大橋や海峡の眺めは最高です。いずれ再開してもらいたいものです。
私の友人(藤井美由紀さん)の描かれた優しい言葉や絵は法話そのものです。読んでいて恥ずかしくなる言葉です。今日はどんな応対(生活)しただろうかを思う?毎日なのです。