御召屋形船内部 説明板
御召屋形船内部
*起渡し場には、常時3隻の定期船のほか、鵜飼船17隻・馬船14隻がおかれ、
20人の船頭がいて「尾張藩」より扶持米が与えられていました。
渡し場は藩の御舟手奉行のもとに「船庄屋」と「船方肝煎」がいました。
藩との関係の深い通行者には、船2隻の上に屋形を組み、「御召船」としました。
内部は畳3枚分の広さです。 大名などが船に乗り降りのさいには、
船が揺れないように「船押人足」が、川中から背中で船を両面を押さえました。
船橋架け 船橋架け
船橋 船橋
*船橋、将軍・朝鮮通信使・八代将軍「徳川吉宗の生母」の通行にさいして、
船橋を架けました。 長さ855mという日本最大の船はしです。
木曽川の起に架けられた「船橋」は、全長855m前後、船数270艘を越える、
日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。
宝暦14年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられる事はなくなったものの、
「尾張名所図会」は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、又、
朝鮮通信使の一行も、舟橋の壮大さを記録に残している。
( 説明板=一宮市起堤町168-1)
(起渡船場跡・船橋跡・説明板)
昭和四42年8月28日指定(一宮教育委員会)より。