*村ちゃんの古城跡散策!

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*村ちゃんの歴史街道!     *羽島市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡(定渡船跡・美濃側)!

2017-08-15 | Weblog

    

木曾川堤渡船場跡    岐阜羽島側堤下

 

   

堤下説明板     説明板

 

    

金刀比羅社(羽島側)  碑

 

美濃路

 *起渡船場跡(一宮市側)~ 定渡船場跡(羽島市側)! 

*住所=羽島市正木町大浦(金刀比羅神社)

  美濃街道(美濃路)は、起渡船場より木曽川を越えて美濃の国に入る。

  ここには上・中・下の三ヵ所の渡し場があり、それぞれ定渡船場・宮河戸・

  舟橋河戸と呼ばれており、西国大名の参勤交代を初め大多数の通行人は、

  この定渡船場を使用していました。この起の定渡船場に対応する、

  美濃側の船着き場から上がって広い川原を通り、大浦輪中の、

  懸け回し堤防を越えた場所が、大浦の「金刀比羅神社」である。

  起・金刀比羅神社と共に通行人の安全を、願って祀られたものであるが、

  この神社は対岸の起渡船場にあったものが、出水でここに流れついたとも、

  伝えられています。その頃より、むかしこの辺りに水神である山神社が祀られていた。

  いつの頃か対岸の起・大明神社に合祀されたが、夏の日照りが続き、

  雨乞いがしたくなると、起の村人たちが、打揃って旧宮跡まで、

  雨乞い祈願に来る習慣が、明治末年頃まで続いたと伝えている。

  (羽島市 歴史・史跡検証委員会・説明板より)

 

   

  


*村ちゃんの歴史街道!     *羽島市編!     *美濃街道(美濃路)!     *起渡船場・石灯台!

2017-08-15 | Weblog

    

渡船場・石灯台    石灯台

 

   

*渡船場石灯台    説明板 

*住所=羽島市正木町新井        

*この石灯台は、明和7年(1770)に建てられたものである。

 伝承によれば「竹鼻町伊勢屋」の祖先の力士がある夜、起から木曽川を渡り、

 新井(羽島市)の堤防へあがろうとしたが、道も方角もわからず大変困ってしまった。

 そこで堤防の上に「石灯台」並びにその油代として田二反(1990m2)

 をも併せて寄付されたものです。

     

渡船場跡        説明板

 

   

渡船場「正木の本堤防」 

*住所=羽島市正木町新井

 起渡船場(羽島市)は、尾張藩の御船手奉行の支配下におかれ、

 渡し船は常時2艘のほか旅人の多い時に備えて置船1艘、合わせて3艘常置されていた。

 羽島市正木大浦地区は、以前は、大きく「く」の字型に屈曲する木曽川右岸境の外にあった。

 川側に大浦中堤小堤防としてあったものの、木曽川洪水の際には、

 決壊し、度々惨害を被っていた。 大正十年より始まった木曽川上流改修では、

 当初「く」の字の旧本堤うぃお拡張する計画であったが、大浦輪中水害予防組合のたび、

 重なる要望と木曽川河道の線形を考慮し、川側の大浦輪中堤を新たに本堤として、

 拡張することとした。 工事は昭和七年十一月に着工し、昭和十三年十月に、

 約三千メートルの新堤防を完成した。 この施工により大浦地区は堤防内となり、

 家屋四十三戸(当時)及び耕宅地約七十五町歩は積年に亘る水害の脅威から開放され、

 また廃堤となった旧堤敷、廃川敷約二十町歩が新たに耕地として利用できることとなった。

 この事跡を永く後世に伝える為、大浦輪中水害予防組合は、

 昭和十六年、木曽川堤坊の脇に「本堤改修・碑」が建てられた。

 (国土交通省・説明板より)

  

  

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡・定渡船場跡(上)!

2017-08-15 | Weblog

     

渡船場跡       渡船場跡

 

   

金比羅宮        金比羅宮説明板

 

     

渡船場跡・説明板    金比羅宮前

 

   

木曽川堤渡船場跡    渡船場堤跡

*起渡船場跡(上)・定渡船場跡!     

住所=一宮市起字堤町38

 美濃街道(美濃路)の定渡船場跡には、上流から上・中・下の三ヶ所の渡し場があり、

 定渡船場・宮河戸・船橋河戸と呼ばれていました。 常時多くの人々に使用ていたのは、

「定渡船場」である。

 江戸時代初期から、渡船場には「定渡船場」2艘・置船1艘・御召船1艘の、

 合計4艘が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、

 人々の往来を支えました。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や、

 京都の公家の往来にも使用されました。渡船場の実質的な管理は起宿の、

 船庄屋が行い、船頭20人がいました。

 昭和31年(1956)に現在の「濃尾大橋」が完成するまで、

 この「渡船場」は、岐阜県(美濃国)と愛知県(尾張国)を結ぶ、

 重要な交通手段であった。    

(一宮市教育委員会・説明板より!)