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大学時代:グリークラブ、己の実力を知るその2

2006年11月11日 | 音楽のルーツ
カルテット大会にも増して自分の実力を思い知らされたのが演奏旅行でした。

毎年夏休みに道内の地方の市町村を廻るのですが、これがまたハードスケジュールでした。
1,2年は3泊4日の旅行でしたが、汽車の中では飲み食い、トランプ、麻雀、花札などに明け暮れ、裏では賭博列車などと人聞きの悪い冗談まで言うやつがいました。(苦笑)
大体1日昼夜2回の演奏をこなし、行く先々の駅では演奏会のPRのため何曲か歌いました。
昼は小、中学校での演奏、夜は単独、時には地元のママさんコーラスとの共演もありました。
1年目の時は、完全に旅行気分でしかも普段大して熱心に練習もしていなかったのですぐに声が出なくなる。ある程度は歌えると思っていただけに情けなかった。
まあ、でも1年目なのでいいかと、自分で逃げてしまっていました。
それでも、演奏旅行で行ったところは覚えていますね~1年目の日高方面はいまだに小学校の校歌のワンフレーズが浮かんでくるほどです。

2年目からは真面目に練習に出るも、やはり1年目の練習不足がたたり夏の演奏旅行には間に合わず、最終日には声が出なくなりまたまた情けない思いをしました。
2年目のとき行ったのは網走方面、オホーツクの海がすぐ近くの小さな町にも行きました。なかなか行けないようなのどかな町に行ける事も魅力でした。
演奏旅行では地元の教育委員会の皆さんに大変お世話になりました。夜もジンギスカンやバーベキューなどでもてなしてくれたところも多かった。本当にいい思い出です。

しかし、この、演奏旅行の打ち上げがまた大変なのです。

長い演奏旅行をなんとか無事に終えた安心感と、やり遂げた満足感、やり遂げられなかった悔しさ、そして長旅の疲れが一気に爆発するのがこの時なのです。
打ち上げの会場は、体育館だったり公民館のホールだったりしますが始まる前からなんともいえない異様な空気が流れていて自分でもすでに興奮状態にあるのがわかります。
そして乾杯の音頭とともに用意された何100本ものビールが数分のうちに空き会場は修羅場と化すのです。

こんな演奏旅行ですが、地元の方の温かい心遣いにふれられたり、長期間みんなと一緒に苦楽を共にするので団としては非常に連帯感が生まれるいい機会でした。
夏の演奏旅行で団員が一体となり、また自分の力も知り、冬の定演に向かってそれぞれが自分なりの努力をしながら一丸となって望む。
そんなきっかけとなる大事な行事でもあったと思います。

そんな中で、私は悔し涙に濡れ来年こそ全演奏会を歌いきるぞと、心に誓うのでした。

大学時代:グリークラブ己の実力を知る。その1

2006年11月08日 | 音楽のルーツ
グリーをやっていて、自分の力の無さをいやというほど思い知らされた行事が2つありました。
1つはカルテット大会。もうひとつは演奏旅行です。

カルテット大会は、それぞれのパートから1人ずつグループ(カルテット)を組まされ、課題曲と自由曲の2曲を歌い優勝を争うものでした。

確か最初のカルテット大会は、合宿の時に急遽行われたような気がします。
まずまずのメンバーが集まったということで、1年目の私がいるにも係わらずかなり難しい「人間の歌」(作詞:堀口大学、作曲:多田武彦)から「浜の足跡」という曲を選択してくれました。
結果は、最初はよかったのですが、途中からバラバラになってしまいました。
思えばこれが、ケチのつきはじめか・・・(苦笑)

私はこのカルテット大会でなかなか優勝が出来ませんでした。
1年目の時はまだしも、トップテナーの1員でしかもI君と2トップを自覚していた自分にとって、これは結構プレッシャーでした。

色々手を尽くすのですが、それが裏目に出て優勝を狙うあまり凝りすぎたりどうしてもいい演奏が出来ないのです。
その時自分の本当の実力の無さを痛感させられました。
他の同期達は優勝したりそれなりに上位に食い込むのですが自分は3年目まで最高が3位ぐらいだったと思います。

1回は優勝しなければと焦るのですがなかなかいい結果がでません。
最初はメンバーに恵まれないのかと思ったりもしましたが、ある程度のメンバーが揃ってもうまくいかない。
そうなると、もうどうしようもありません。焦れば焦るほど優勝から遠ざかっていくような気がしました。

これは合コンも同じで、彼女を作ろうと焦ると話も妙にギクシャクしてなかなかうまくいきませんが、余裕のあるときだと会話もスムーズに弾み予想外にもてたりするのです!?

大学時代:グリーと酒とバラの日々!?

2006年11月07日 | 音楽のルーツ
練習は週1回木曜日だったかな、指揮者を中心に行われます。
指揮者はグリーのメンバーから選ばれた学生指揮者が正指揮者、副指揮者と2人。
そしてF女子大学からO先生を客演指揮者として招いていました。O先生は我々グリーのボイストレーナーも担当していました。
先生のボイトレ(ボイストレーニング)はなかなかで、素人同然の我々を根気強く指導してくれました。お蔭様で我々も4年間でなんとかグリーに見えるようになったと思います。
私の声は、合唱では芯になる声ではなく他人の声に吸収されるというか、同化しやすい声なので合唱向きではありました。
しかし、1~2年の頃はまだフォークに未練があり、グリーの練習もサボりがち。今思えば練習もその場限りで気持ちが入っていなかったので上手くなる筈がありませんでした。

練習の合間に各女子短大と合コンがセットされます。
え~と、札幌の女性合唱団はF・S・Oの3つの短大とS大あとK大にもあったかな~
まあ、コンパは主に3つの短大とやるのが通常でした。
初めての合コンは今でも覚えていますね~
1年目はみんなドキドキもので、何を話せばいいのか。おろおろ・・・
先輩たちはニコニコ。

初めての合コンは話が途切れるとタバコでごまかし、酒もまだあまり飲めなかったし、面白い話ができるタイプでもないので特に仲良くなった人もなく。。。
確か2次会にもほとんど誰も流れずあっけなく終わったような覚えがあります。
先輩達の不満はセットした渉外マネージャーに向けられていたのを思い出します。
あとから聴いた話ではO先生も自分の部員の付き合いの悪さを少々気にしていたとか・・・
まあ、先生にしてみればうちのグリーは客指揮とボイトレを担当しているいわば兄妹のような合唱団なので気を使っていたのでしょう。しかし、それだけ我々に魅力がなかったのでしょう。個人的にうまくやってる奴はいたようですが。。。

団としての合コンは前述の3短大プラスアルファですが、その間に先輩からパートコンパをセットしろという命令が下されます。まったく無茶な。
私も数少ないコネ?を使い、なんとかS短大とセットしたことがあります。
こうして、歌の練習の合間に酒とバラの日々?が始まったのでした。

大学時代:グリークラブ(春の連ピク)

2006年10月23日 | 音楽のルーツ
グリークラブの年間のスケジュールは、冬の定期演奏会をメインに地方を回る夏の演奏旅行、春と秋の市民合唱際への参加、カルテット大会などが主な行事でした。
その間に大学の合唱団同士でレクリエーションがありましたが、その中の一番大きな行事が春の連合ピクニック(連ピク)でした。
札幌近郊の大学の合唱団が集まり、支笏湖へ行ってゲームやジンギスカンやボートに乗ったりして親交を深めるのです。

各大学混合の班がつくられますが、この時はメンバーは教えてもらえませんでした。
最初に顔合わせをするのですが、誰がくるかわからないままに集合場所に行って喫茶店で色々と役割を決めるのです。これは目隠しデートと呼ばれ、1年目の我々は期待と不安でドキドキながら待ち合わせ場所へ行きました。
もっとも1年生ですので、メンバーの名前がわかったところでどんな人かはわかりませんが(苦笑)

集まったメンバーは男性3人女性3人だったと思います。
その中で1学年上の女性が綺麗な人でひときわ目立っていました。
その人、U先輩はなんと、あのSS君と同じ大学だというではありませんか。

これがきっかけとなり、私はSS君とU先輩を巡ってし烈な争いを・・・したかどうかは後にしまして、とにかく憧れの先輩として大学時代の4年間、我々のマドンナ的存在となるのでした。

ただそのときは綺麗なお姉さんという感じで、先輩ですから、私は同じ1年目の切れ長の大きな目が印象的な女の子に標準を絞り、一緒にボートに乗ってもらおうと思うのですが。。。残念ながら、くじ引きで負けて違う女の子とボートに乗ることになるのでした。

この1978年はアイドルではピンク・レディ「UFO」の大ヒット、榊原郁恵が「夏のお嬢さん」でブレイク、ニューミュージックでは八神純子がデビュー。また高橋真梨子が「あなたの空を翔びたい」でソロデビューした年でもありました。

大学時代:グリークラブ(男声合唱)について

2006年10月20日 | 音楽のルーツ
今日は、男声合唱について少しご説明しましょう。
ご存知かもしれませんが男声合唱のパートは4つに分かれています。

まずベース。
バスともいわれます。一番低い音階を担当するパートで、リズムを刻み曲に厚みをつける縁の下の力持ち的なパートです。歌う人は太めでがっちりしたタイプが多いというイメージがありますが、それはあくまでイメージです。(苦笑)

次にバリトン。
バリトンはベースの上の音階を歌うパートで、主にハーモニーをつける音階のためメロディが難しい。日本人の男声の一般的な音階といわれていましたが、最近はもっと高くなっているような気がします。

次にセカンドテナー。
セカンドテノールとも呼ばれます。普通はセカンドと呼んでいました。
このパートもハーモニーをつけるパートですが、時々主旋律を歌うこともあります。バリトンとともに内声とよばれる重要なパートです

そして、最後はトップテナー
男声合唱の花形。主旋律を歌うことが多く、一番高い音階を担当するパートです。
主に主旋律を歌うので一番目立ちますが、単に高い声を出せるだけでなく表現力も求められ、しかも、曲の良し悪しはトップのせいにされることが多い。非常にきついパートです。
必然的に責任感のある気の強い性格(歌に対して)が形成されます。(苦笑)
しかし、それだけに良い演奏が出来たときの感動は外のパートよりも大きかったのではないかと思いますが、それもすべてみんなのお陰、ほかの3パートの支えがあってこそのトップテナーなのです。
しかし、私がそんな演奏が出来るようになるのはまだまだ先のことでした。

大学時代:男声合唱組曲「雪明かりの路」に感動!

2006年10月19日 | 音楽のルーツ
この初練習の時にこの年の定期演奏会の最終ステージで演奏するという男声合唱組曲「雪明かりの路」から1曲目の「春を待つ」を我々1年生に聴かせてくれました。
まだ、練習中の曲ではありましたが、歌い出しが特に印象的で鳥肌が立ちました。
この時の感動は今でも覚えています。

この組曲は、小樽の作詩家伊藤整氏の詩集に多田武彦氏が作曲したもので、雪国で暮らす人々に捧げた情緒豊かな作品に仕上がっています。
雪の多い北海道の冬のある日、久しぶりに晴れた日光のもとで、春への憧れを語るように歌っていくものです。
多田武彦氏は男声合唱では非常に有名な作曲家で、このあとも数々の多田作品を我々は歌っていくことになるのですが、この「雪明りの路」は大学4年間の中でも特に思い入れの深い曲として心に残るのでした。

最初の頃は私も合唱を少しやっていたというだけでほかの連中を少しだけリードしているような優越感がありましたが、そんなおごり高ぶりは練習をしていくうちに跡形もなく消えていきました。

はっきり言って、1年目の時の自分はほとんど使い物にならなかったと思います。(苦笑)まず、何曲も歌いこなせるだけの体力がありませんでした。すぐ声が続かなくなってしまうのです。その点に置いてもI君は数段上を行っていました。
早くも力の差を見せ付けられる自分ではありましたが、まだ、グリークラブに全精力を注ぐだけの情熱もなかった事も事実でした。

大学時代:グリークラブ初練習

2006年10月18日 | 音楽のルーツ
初めての練習は良く覚えています。
場所は後ろにセリあがってるような広い教室で31番教室だったかな。
ここが我々の練習場、これから4年間汗と涙を流して?練習に励むことになる場所でした。

合唱経験者は私のほかにも2,3人いたと思いますが、特に同じパートのI君は髪にパーマなどかけ既に社会人の風貌。声もいい。聞けば高校ではパートリーダーをやっていたとかで、その頃から1年生の中ではずば抜けていました。しかし、何とも近寄りがたい雰囲気を持つ男でした。(苦笑)彼とは最終的にいい相談相手、いいライバルになり私の歌の技術が向上できたのは彼によるところが多く、彼がいなければ音楽的に今の私は無かったかもしれません。

確か、最初の練習のとき、グリーの指揮者のT先輩?の指示で2年生から学年ごとに男声合唱の定番「いざたて戦人(いくさびと)よ」など愛唱曲を披露してくれた記憶があります。この曲は混声でもやっていたので知っていました。
2年生、3年生と歌い、いよいよ4年生の番。
4年目になるとどれほど上手いのかと期待していたところ

見事にコケまして。。。
「おまえら、4年目なにやってんだ~!」と一括され、大爆笑!
このあと、口直しに選抜カルテットが登場して、何とか先輩の面目を保ったような記憶があります。

また、練習では民謡もやったような気がします。
これは、定期演奏会でやる曲だったらしいのですが、その当時の私にはなかなかの迫力でした。
我々も一緒に歌いましたが、自分の声が聞こえなかった。(苦笑)
やはり、男声合唱のパワーはすごいと思ったものでした。

この当時(1978年)に流行っていたのは前年に「あんたのバラード」で世界歌謡祭グランプリの世良正則&ツイスト。そして、サザン・オールスターズがデビューした年でもありました。

大学時代:グリークラブとの出会い

2006年10月17日 | 音楽のルーツ
さて、いよいよ大学時代行きます!

私は高校卒業後、札幌の大学に進むことになりました。
実はちょっとだけ、本気でミュージシャンへの道も考えたこともあるのですが、その頃は自信がなく、なんのアクションも起こさないで自分であきらめてしまいました。
あきらめた理由は「食べていけないだろうから」
まあ、硬い選択ですがこんな消極的ではプロになれるわけがない。(苦笑)

この大学はあのフォークデ゛ュオ「ふきのとう」も在学した大学で、フォーク研究会に入ればなにか道が開けるかもという気持ちも多少あったかもしれません。
ただ、男声合唱団(グリークラブ)もあることは知っていました。確か高校の音楽部の先生がなかなかいい合唱団だといっていたような記憶があります。

入学式の日、体育館のギャラリーで歌うグリークラブの歌を聴き、まあまあだなと男声合唱も知らないくせに思ったような気がします。

そして、入学式が終わり体育館を出ると、いろいろなサークルが新入生を勧誘していました。
うわ~すごいな~と思いながら少し歩き始めたときです。

「君、歌好き!?」唐突に後ろから声をかけてくる人がいました。

お、フォーク研究会かな!?と、少し期待して振り返ると、そこにはさっき入学式で歌を歌っていたグリーのユニフォームを着た小柄な人が立っていました。

「これも何かの縁かな・・・」人が良さそうでちょっと軽めのその先輩に口説かれているうちに私はグリーをやってみようと決心するのでした。

私の音楽のルーツ(76、77年レーティングス:古いノートから)

2006年08月31日 | 音楽のルーツ
76,77(高校2年、3年)と進むに従って、絶対的1位だったビートルズに微妙な変化が現れます。

高校3年生の77年になると、なんとビートルズとイエスが同点で1位!
3位もピンク・フロイドとキャメルが同点、5位ムーディ・ブルース、6位EL&Pと
ビートルズ以外は6位まで全てプログレバンド。

この時期、いかにプログレに傾倒していたかがわかります。

邦楽では前にも触れましたが、音楽部で人気が高かったさだまさしを聴き始めます。
オフコースはH氏が好きでテープなど貸してくれたと思いますが、まだフォークデュオのオフコースはちょっと物足りなく感じていました。

私の音楽のルーツ(75年レーティングス:古いノートから)

2006年08月31日 | 音楽のルーツ
さて、75年の私のレーティングス。

1位は不動のビートルズ!(17)

以下

2位 クイーン(36)
3位 バッド・カンパニー(58)
4位 エマーソン・レイク&パーマー(64)
5位 ディープ・パープル(73)
6位 レッド・ツェッペリン(75)
7位 イエス(84)
8位 モントローズ(89)
9位 グランド・ファンク・レイルロード(101)
10位 ローリング・ストーンズ(108)
( )内は年間合計※

3位のバッド・カンパニーは時代ですね~
注目は7位のイエスと8位のモントローズ!
じわっと出てきましたね~

※この年から毎月順位をつけ12ヶ月の合計で年間ランキングを決定しています。




私の音楽のルーツ(高校時代:合唱コンクールに出場その後)

2006年08月30日 | 音楽のルーツ
コンクールが終わって我々はもぬけの殻のようになってしまいました。
燃え尽き症候群です。

途中で入った私でさえそうなのですから、LS君を含めた主力メンバーの落ち込みは計り知れないものがあったと思います。
しかし、このコンクールが音楽部を我々3人をより強く結びつけてくれたことは言うまでもありません。

ある日、私の家に両S君が遊びに来て色々話をして帰ったあと、1枚のメモを発見。
それはLS君がいたずら書きした詩のメモでした。

読んでみるとこれがなかなか良い(苦笑)
これは曲になるとちょっとそのメモをアレンジして歌詞を作りついでに曲までつけてしまいました。
シンプルですがハモルとなかなかよい出来で、これがきっかけで彼ともその後何曲か作ることになるのです。

高校卒業後、LS君は東京の有名私立大学へ、私とSS君は札幌の無名私立大学(違う大学です)へ。。。

あのコンクールの悔しさを3人とも忘れることはありませんでした。
高校で、合唱を終わらせることが出来なくなってしまったのです。

我々は舞台を函館から札幌と東京に移して第2部を始めようとしていました。




私の音楽のルーツ(高校時代:合唱コンクールに出場その2)

2006年08月29日 | 音楽のルーツ
高校3年生の最後のコンクールは力が入りました。
テナーは同学年が背の高いS君ともうひとりのS君。(わかりにくいのでLS君とSS君にします)そして私の3人でした。
3年になってからは私も真面目に練習にも行くようになり、3人のチームワークはだんだんとよくなっていました。
音楽部全体のチームワークも共通の目標に向かって1つになっていくのが私にもよくわかりました。

そして望んだ朝日コンクール北海道大会。
出番は何と1番目。

コンクールの場合、演奏する順番が非常に重要になってきます。
特に1番となると審査の基準がまだわからないので審査員も採点が厳しくなる傾向があるのです。
しかも、朝なのでコンディション作りも大変です。

結果はなんと最高の金賞!

しかし、金賞はもう一校あり、採点で?全国大会への切符は手にすることが出来ませんでした。

金賞をとりながら全国へ行けない。

ひとつの事をやり遂げた満足感よりも、なぜ?といったやるせなさがいつまでも心に残る結果となってしまいました。

私の音楽のルーツ(高校時代:合唱コンクールに出場)

2006年08月28日 | 音楽のルーツ
高校2年3年とNHKコンクール(Nコン)と朝日新聞社主催の全国コンクールに出場。
実はこのコンクールのために強制的に入れられた私のような人は他にもいました。

2年の時のNコンは入賞してテレビで放映もされました。
まだ一般的に家庭にビデオなどない時代なので学校が用意してくれた(誰かが撮ってくれた?)ビデオを学校で鑑賞しました。

ところが、ある先輩が映っていないというのです。
そんなバカな!?
当日はちゃんと歌っておりましたので、映ってないなんてことは考えられません。

しかし、S君から聞いた話によると。。。
カメラは引いて全体を映してから一人一人の表情を追うのですが、1列目2列目と上に上がっていきます。
すると列の最後にいるはずの先輩のところになるとカメラは何かに引き寄せられるようにすっと上に上がってしまうというのです。

実は、先輩の後ろに身の丈2mもある大男!(ちょっとオーバーか)S君がいまして、カメラか彼を追って上へ上がってしまうので、ちょうどエアポケットのように死角が出来てしまったらしいのです。

先輩は何度も何度もビデオを観て確認したらしいのですが、「やっぱり映ってない・・・」とひとこと漏らして帰ったということです。

S君が悪いわけではないのですが、私の頭の中に「何事も過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉が浮かんだ・・・かどうかは定かではありません。

私の音楽のルーツ(フリーター時代:冬の時代に虹をみた!)

2006年08月16日 | 音楽のルーツ
アルバイトは10日ぐらいだったと思いますが、昼休みにみんなで集まってお弁当を食べているうちに段々と話をするようになってきます。
私も気の会う仲間が出来ました。
そんなある日、彼と音楽の話になり、彼はジョー・サンプルがいいと、そのときだけは普段おとなしい彼が目を輝かせて、絶対いいから聴いてみたら!というのです。
それまではJAZZ、フュージョン系はほとんど興味がなかったのですが、この際、なんでもよかった(苦笑)

聴いてみると全曲インストゥルメンタルなんですが、これが本当にいい!
JAZZほど重くなくフュージョンほど軽くない。
それが名盤「虹の楽園:RAINBOW SEEKER」(写真)です。

私は一発で気に入り、ジョー・サンプルの他のアルバムやクルセイダーズも聴き始めました。
この重苦しい1年の最後に少しだけ救われたような気がしました。気持ちが明るくなりました。
このアルバムを聴くたびにあの頃のことを思い出します。

あの頃の私は、仕事という虹を探す「RAINBOW SEEKER」だったのかもしれません。

このアルバイトの終わり頃には、いかついトラックの運ちゃんともみんな顔見知りになり、あのでかいパーマ男に対し「人生は我慢だ我慢!」としみじみと語っていた運ちゃんの言葉が妙に説得力がありいまだに印象に残っております。                            

私の音楽のルーツ(フリーター時代:プロローグ)

2006年08月15日 | 音楽のルーツ
さて今日は、時代を高校から5年ほど飛ばしてジョー・サンプルの話を。。。

私は大学を出てから1年間空白の時間があります。
フリーターなんて言葉はあの頃あったかな?早い話が就職浪人です(苦笑)。

この1年は気持ちが焦るばかりで、ろくな事がありませんでした。
でも今思えば、この1年間は私にとって人生の縮図だったかもしれません。
プレッシャー、失恋、人の冷たさ、お金を稼ぐということの大変さ、人のやさしさ
・・・
アルバイトも色々やりました。デパートの店員、店頭のウナギ蒲焼実演販売、同じくデパートでの百円均一、ステーキハウスの店員未遂、スポーツ店の倉庫整理、デパートの配送品回収、サンリオフェスティバル・・・

今回の話はデパートの年末の配送品回収のアルバイトのときの話です。

1982年も暮れようとしている12月。
私はまだ就職が決まらず、デパートの年末商戦の配送品の回収のアルバイトをすることにしました。

集まったのはどう見ても学生とは思えない無職っぽい男ばかりで、むさ苦しい上にみんな暗い(私も含めて、まあしかたないか)苦笑。
その中でも目立ったのは、でかくてパーマをかけて怖そうだがいつもボ~っとしていて気の優しい見ていて微笑ましいヤツといつも細長~いおにぎりを持ってきて(これは最初見たとき不思議な食べ物だった)うまそうに食べる結構年がいっていそうな目のぎょろっとしたちょっとキモイヤツなどなど(苦笑)。