Wind of Mind

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自作の音楽や美味しいものなど気ままにアップしていきます!^^ゞ

Iアパートの思い出~K君のにぎり寿司

2006年12月16日 | 音楽のルーツ
グリーの練習が終わると、よく同期と一緒に喫茶店に行ったり、飲みに行ったりしました、しかし、お金がないので自然と誰かのアパートに行くようになりました。
そんな時、みんなのたまり場になっていたのがこのIアパートでした。

Iアパートは北12条駅から歩いて10分ぐらいのところにある集合アパート?入り口がひとつで中は迷路のようになっていました。近くにT女子大があり、後にそこの合唱団の子も住んでいることが分かりました。

そのアパートには同じグリーのK君とH君が住んでいました。
H君は同じ函館出身で気さくな人で、なかなかのイケメン!?
ユーモアもあり結構女の子にもてるタイプでした。
K君は後にグリーの指揮者になるぐらいの音楽的才能を持っている人ですごく人が良かった。でも、ビールが大好き。料理も好き。
たまり場になったのはやっぱり二人の気さくな性格によるところが大きいと思います。
気軽に行きやすいのです。

我々はよく安い食材を買ってきて、料理もK君の指揮のもと、みんなで作ったこともありました。
作ったのはトンカツ、パスタ、あとは酒のつまみでくじらベーコンの細切りにネギと鰹節をたっぷりのせたやつ。これに醤油をかけて食べるのですがめちゃ美味かった!しかも安い!

そして、私の一番の楽しみは彼がたまに握ってくれる寿司でした。
なんと見よう見まねながら器用に寿司を握るんです!
ネタはマグロ、イカ、タコ、シメサバと安いものばかりでしたが、握りたてですからこれがメチャメチャ美味かった!

実は奇跡的にこのお寿司の写真が残っておりました!
これです。ご覧ください!

さらに、K君にはS子ちゃんという妹がいて、なんと同じ部屋に住んでいたのです。
S子ちゃんはすぐに我々グリーのアイドルになりました。
優しい兄としっかりした妹という感じでほほえましい兄妹でした。

大学時代、グリー2年から3年目へ:先輩としての危機感その3

2006年12月08日 | 音楽のルーツ
私はこのソロを成功させる以外にグリーで生き残る道はないと思いました。
そしてついに私は自主トレを開始することを決心するのでした。

しかし、自主トレといってもここで私が考えたのは歌の練習ではなくて筋トレでした。
なぜそういう発想になったのかというと、中学・高校と陸上部にいたことがあり筋トレでかなり体を鍛えていたのです。
大学に入りいくらグリーが体育会系に近いとはいえ実際の運動量はものすごく減っていて、さらに酒とバラの日々にどっぷりと浸かり体がなまっているのを感じていたからなのです。

私は特に腹筋を鍛え直せば声も自然に出るようになると思い、中高生の頃やっていた腕立て伏せと腹筋を毎日寝る前に20回ぐらいから始めました。
これなら長続きするという自信もありました。

肉体的にはまだ下地が出来ていたせいか、その効果はすぐに現れてきました。
今までは出すのが苦しかった音域が、トレーニングを開始してからまもなくそれほど苦しくなくなってきたのです。

こうなると、元々好きな歌ですから自信が回復してきます。
自信が回復すると今まで出なかった音域までが出るようになるから不思議なものです。

しかし、グリフェスは6月、あまり時間はありません。
私のソロは曲の1部ではなく1曲を通してほとんどがソロという曲でした。
果たして歌いこなせるようになるのか?

こうして、勝負をかけたグリークラブ3年目が始まりました。

中学校の頃アルバムに描いた自画像!?

大学時代、グリー2年目:先輩としての危機感その2

2006年12月06日 | 音楽のルーツ
多少のハプニングがあったとはいえ得意のはずのフォークのコンサートでの失敗。
これには私もさすがにショックを受け自信を失いかけていました。

原因はやっぱり練習不足。さらに、大学に入ってからの酒・タバコもあって高い声がきちんと出ないのです。
しかし、私にもこだわりがあり合唱の発声とフォークは区別したかったのです。
さらに合唱も俗に言う合唱合唱した歌い方は絶対嫌でした。
合唱の発声法はともすれば聴く人の耳障りになる場合があるのでそういう歌い方はしたくなかったし、我がグリー全体にもそのような雰囲気もありました。
幸いにもO先生のボイトレも本格的でありながら我々の声を生かしてくれるものでした。

さて、しかし、新年度はすぐそこまで来ています。

新年度の大きな行事にグリー・フェスティバル(以下「グリフェス」)というものがありました。
グリフェスは4年に1度道内の男声合唱団が一同に会し演奏会をやるという男声合唱の祭典でした。

そんな中、なんと私は正指揮者からこのグリフェスでやるという「黒人霊歌」のソリストに指名されたのです。といっても、黒人霊歌の場合ソロが多いので4,5人ぐらい指名された内の一人でしたが。。。

実は、この正指揮者は例のコンサートでドラムを叩いてくれた先輩で彼の合唱だけでない幅広い音楽性が私の歌唱を認めてくれたのかもしれません。
ある意味、私を指名することはその人にとっても賭だったと思いますが、私はこんな状態の自分を認めてくれて非常に嬉しかったのを覚えております。
実際、あいつで大丈夫なのか?という冗談とも本音ともつかないことを言う人もいました。

私はこのソロ指名がフロックでないことを証明するには歌で認めてもらうしかないと思いました。
そして、ある決心をするのでした。

大学時代:悪夢のフォークコンサート!?(後編)

2006年12月05日 | 音楽のルーツ
打ち上げに行った居酒屋で5人で飲んでいても、私はショックでボーっとしていました。
しかし、なんとそこに私の歌が良かったという某短大の女の子が二人来てくれたんです。
ところが私は本当にがっくり来ていたのとまったく予想していなかったことなので即座に対応できず、お礼を言うのが精一杯でした。
穴があったら入りたいぐらいだったので・・・いや本当に申し訳なかった

この時、全員でやったのは「青春の影」「飛梅」「遠くで汽笛を聞きながら」の3曲で当初私は「飛梅」だけだと思っていたのですがM君(トップの例の後輩)が「青春の影」もやって下さい。というので「青春の影」はお前の方が合ってるだろうと言ったのですが、彼はどうしても私に歌ってくれと言うのです。

実はこの頃、グリーの中では私よりM君の方が上手いのでは?という噂が流れ始めていて、それを知った彼は私に気を遣ったのだと思います。(その噂はもちろん私も知っていましたが)
ということで私が2曲やることになったのですが、やはり「青春の影」は彼の方が合っていた。(苦笑)

このコンサートでの失敗はさすがにショックでした。録音テープは26年たった今でも通して聴く気にはなれません。(苦笑)

この頃の私は、感情を込めることが自分の持ち味だと考えている、いわば魂のフォークシンガー(苦笑)この日も声の調子をカバーすべく目一杯感情込めて歌いましたが、憧れのU先輩にまで重すぎるといわれ、それもかなりショックでした。。。

しかし、この失敗がついに私の中の危機感に赤信号を燈らせ、このままではいけない・・・と発奮する起爆剤になるのでした。

大学時代:悪夢のフォークコンサート!?(前編)

2006年12月04日 | 音楽のルーツ
2年目の思い出はなぜか合唱以外のことが多い。(苦笑)

このコンサートもグリーのフォーク好き5人プラスワンによるものでした。
1980年の2月、場所は札幌のレコード店の小さなスタジオのようなところでした。

ステージは後輩二人のグループと私ともう一人の後輩がソロ、そして最後に全員で3曲。
バンドの構成はエレキギター、ベース、キーボード、ドラムスそしてフォークギター。
キーボードには紅1点のかわいい女性!

私は第3ステージでしたが、前の2組が予定を大幅に早く終わってしまい、エンジニアをやってくれている先輩から窓越しに伸ばせ!のサインが出ていました。
私はオープニングに陽水の「冷たい部屋の世界地図」あとは全てオリジナルで全部で8曲やりましたが、何しろ1人でオリジナルを人前で歌うのは初めてで滅茶苦茶緊張していました。

本当にステージの上でどうして良いかわからないのです。(苦笑)
ステージといってもお客さんより少し高いぐらいの位置でお客さんの顔がよく見えるぐらいの距離ですから、なおさら緊張しました。
その上に伸ばせのサインですから、もうわけもわからず曲の間に喋り捲り。
あとで、人間追い詰められるとなんでも出来ると思いましたが。

結果は自分としては惨憺たる出来でがっくり。
その余韻が合同ステージにも影響し、満足のいく演奏は出来ませんでした。
それでもとりあえず終わったということで5人で打ち上げへ。
しかし、そこには思いがけないことが待っていました・・・

後編へ続く!

1979年のミュージック・シーン

2006年12月03日 | 音楽のルーツ
1979年(昭和54年)の日本の音楽シーンを振り返ってみましょう。

この年オフコースが5人のバンドとなって始めてのアルバム「Three and Two」を10月に発表。
そして、12月発売したシングル「さよなら」が大ヒット!
私もオフコースの魅力に引き寄せられて行きました。

また、さだまさしは「関白宣言」の大ヒットによりNHK紅白歌合戦に出場。
3分枠を超える歌をフルコーラスで歌うという快挙を成し遂げました。
「天までとどけ」「親父の一番長い日」もヒット!
私は翌80年に札幌で2回コンサートに行くことになります。

外には、魅せられて(ジュディ・オング)おもいで酒(小林幸子)北国の春(千昌夫)ガンダーラ(ゴダイゴ)YOUNG MAN(Y.M.C.A.)西城秀樹、チャンピオン(アリス)いとしのエリー(サザンオールスターズ)カリフォルニア・コネクション(水谷豊)HERO~ヒーローになる時、それは今(甲斐バンド)きみの朝(岸田智史)モンキー・マジック(ゴダイゴ)セクシャル・バイオレットNO.1(桑名正博)いい日旅立ち(山口百恵)アメリカン・フィーリング(サーカス)青葉城恋唄(さとう宗幸)夢想花(円広志)季節の中で(松山千春)燃えろいい女(ツイスト)カサブランカ・ダンディ(沢田研二)おやじの海(村木賢吉)みずいろの雨(八神純子)愛の水中花(松坂慶子)美・サイレント(山口百恵)虹とスニーカーの頃(チューリップ)性(ツイスト)君は薔薇より美しい(布施明)などなどバラエティに富んでいます。

ピンク・レディに替わり百恵ちゃんがピークを迎え、ジュディ・オングの「魅せられて」秀樹の「YOUNG MAN」が大ヒット、苦節15年の小林幸子は「おもいで酒」がついに大ヒット!ロックでは甲斐バンドが「HERO」桑名の「セクシャルバイオレットNo.1」サザンが「いとしのエリー」でブレイクしツイストは下り坂へ、「西遊記」の主題歌でゴダイゴが大ブレイク、フォークは岸田智の「きみの朝」がドラマの影響もあって大ヒット、アリスは「チャンピオン」などでピークを迎える。久保田早紀は「異邦人」チューリップ、布施明が久々のヒットなどこの世界も新旧交代、カムバック等過渡期だったのかもしれません。

大学時代:グリークラブ2年目:回想録

2006年12月02日 | 音楽のルーツ
2年目のグリーの通常以外の大きなイベントとしては札幌と姉妹都市であるポートランドのユースフィルハーモニック演奏会に出演したことです。
オーケストラをバックに歌うのは初めてでしたのでなんか不思議な心地よさを感じました。
この演奏会はなんと札幌市民芸術祭賞を受賞!
あとは、向こうのステージマネージャーが知的な美人だったことぐらいしか覚えておりません。

定演は通常は札幌市民会館の大ホールでやるのですが、この年だけ道新ホールでした。
会場のせいだけではないとは思いますが、4年間では一番出来が良くなかったかも知れません。

選曲はシューマン、柳川、海の構図、アイヌのウポポと多田武彦の組曲「柳川」を除いて、難解で難しい曲が多かったせいなのかもしれません。

この年のO先生のステージは「海の構図」4年間で最も難しい曲だったような気がします。

ここで、O先生のボイストレーニングの様子を少しお話ししましょう。

私の印象としては非常にひとつの音を大切にするボイトレでした。
最初は発音しにくい「う」とか「い」でひとつの音が合唱の発声になるまでやります。
時々、誰かを指名して一人で声を出させるのですが、それがドキドキもので。。。

ある時などは指名されたやつがなかなかいい発声にならない。
先生は急遽、「自分の名前をこの音で言ってごらん」

みんな「え!?」

H君「○○○×××~」

みんな爆笑!

先生「ほら、いい響きになったじゃない!」

その後H君は度々その真似をされからかわれることになりましたが・・・

あとはとにかく深い発声・発音を心がけるということで、イメージとしてはおでこの上の方から声を出す感じ。。。
さらに教室の机の天板を持ち上げながら、(支えを作るのです)「ざ~」などの言葉で深い発声ができるようにするというようなことを何回もやりました。
これはデックングと呼ばれる発声法で上からかぶせるような歌い方をするためです。要するに高い音域に行ってもあごが上がらないように。

ある程度パートで音がまとまってきたら、最後はそれぞれの音を合わせると・・・

先生の曲の最初の音階に・・・

じゃ、やってみようか。

と、曲の練習が始まる。。。

すべてが計算されていたのだということがここでわかり、目から鱗でした。

この2年目という年は私は一番伸び悩んでいた年だと思いますが、この地道なボイトレの積み重ねは3年目以降大きく役立っていくのです。

もちろんグリークラブ全体としても。

大学時代:グリークラブ2年目:先輩としての危機感

2006年12月01日 | 音楽のルーツ
いよいよ12月、寒くなってきました~
今年もあと1ヶ月ですね。
このブログをはじめMusicとウルトラの方もご愛読いただき感謝申し上げます。

さて、グリークラブ2年目、1979年です。

今振り返ってみますと、この年は私にとってもグリーにとっても過渡期だったような気がします。

というわけで、新年度を迎え我がトップテナーにも3人の新人が入ってきました。

私はといえば、2年目になっても相変わらず合唱にのめり込まずにフォークのコピーや曲作りに励んでいました。

しかし、前述のとおりこの2年目の演奏旅行はまたも満足に歌えず非常に情けない思いをしたことも事実です。このとき、少し危機感が心に生まれました。

余談ですが、この年の演奏旅行の打ち上げでは、スーパーヘビー級団員による貫禄の横綱土俵入りや某団員の妙技ゲロジャンプなどの名場面があり長いグリー史に残る演奏旅行として後輩に語り継がれているとか。。。

先輩としての危機感、そのときはまだほんの小さな点でありましたが、そのきっかけとなったのはもちろん新たな1年生の存在でした。
新人の3人のうち1人はなかなかの音楽センスを持っていて高い声も楽に出るタイプの好青年でした。

私とは音楽的にもロックやフォークの趣味が合ってこの年度末には彼も含めてフォークのライヴコンサートをやることになるのですが、この彼こそがその後、私にとって脅威の存在になるのでした。。。

大学時代:グリークラブ、アルバイト編⑤

2006年11月20日 | 音楽のルーツ
「なんだなんだ、どこから入ってきたんだ!?」
後ろからスタッフらしき人がイチャモンをつける!
か~っ!いいとこだったのに・・・

私は「さ~どこから入ってきたんでしょうね~」ととぼけて、外へ連れて行きますから。と、窮地をしのいだのでありました。

結局彼女は直接小田さんに花を渡すことは出来ませんでしたがメンバーに預けることは出来、楽屋の奥にいる小田さんを見れただけですごく感激していました。
コンサートが始まるからと会場の片隅に連れて行き、私も場内整備の持ち場につきました。

コンサートが始まり、我々に入場を拒否されそうになった松尾さんも元気にギターを弾いて唯一のメインボーカル曲「君を待つ渚」(だったかな?)を熱唱。
確か、このコンサートでは次のシングルになるという「風に吹かれて」をやってくれたような気がします。あまりいいとは思いませんでしたが(苦笑)。
やっぱり、よかったのは「愛を止めないで」!バンドとして生まれ変わったオフコースに私は少し魅力を感じ始めていました。

コンサートが終わり、会場の外にいるとさっきの女の子が私を見つけてくれて、感極まった表情で、なんども「ありがとうございました!」
そして、かばんの中からなにやら取り出すと、お礼といって私に手渡してくれました。彼女は感激が収まらない様子で私に手を振りながら帰っていきました。あ、汽車の時間を気にしていたような・・・

私はとても暖かい気持ちになり、彼女からもらったチョコレートを握り締めながら彼女の後姿を見送ったのでした。fin

大学時代:グリークラブ、アルバイト編④

2006年11月19日 | 音楽のルーツ
いよいよ開場になり、どっとお客さんが入ってきました。

入場者も一段落した頃、モギリの女の子がなにやらもめている?ように見えて様子を見に行くと、当日券目当てに来たという女の子が「今日余市から来たんですが、当日券がなくて入れないんです~」と泣きついている。
そのモギリのリーダーらしき娘が仲間うちでなにやら相談している。
事情を聴いて私達は目配せしよし!入れてあげよう!ということになりました。

私が会場まで案内することになり、すでに照明が落ちている会場に連れて行くと。
「小田さんに花束をあげたいんです!」
見ると確かに花束を持っている。おいおい、早く言えよ!
と思いながらも、楽屋はすでにチェック済み。こうなったら乗りかかった船。連れてってやろうじゃない!

意外なことに、暗い会場を出て明るいところで見る彼女は、さっきは気が付かなかったがなかなか可愛いではないか!そういえば余市は坂口良子の出身地で美人が多いといわれている。。。

楽屋のドアをノックし、ドアが開いて楽屋の奥にいる小田さんが見えました。
「ほら、小田さんに渡したら」と彼女の方を見ると楽屋の前で嬉しさのあまり固まっているではないですか。

もたもたして誰か来るとまずいな~と思っていた、
そのときです!

大学時代:グリークラブ、アルバイト編③

2006年11月17日 | 音楽のルーツ
裏の受付が終わると、我々はステージに連れて行かれました。
ステージのセッティングの手伝いで、これは嬉しかったですね~
私は小田さんが使うキーボードの組み立てとかをやらされましたが、そのときなにやらひらひらと舞い落ちる一枚の紙切れ・・・
拾って見るとなにやら小さい文字がこちゃこちゃかいてある。
なんだこれ?と思っているとスタッフの人が「あ、それ小田さんのだ、かして!」といって取られてしまいました。小田さんのカンニングペーパー!あ~すぐしまえばよかった~と思っても後の祭りでした。

さて、ステージのセットも終わり今度は表の入り口で荷物のチェックです。
しかしそのちょっとした仕事の合間を縫って私はオフコースの楽屋へ侵入!?

私はオフコースの楽屋の扉をノックしました。
アルバイトもスタッフの腕章をつけているのでどこでも出入りは自由でした。

出てきたのは鈴木さん、お~鈴木さんだ~間近で見ると結構顔が長い。。。
「さ、サインお願いします!」
実は春の連ピクで知り合った女の子がオフコースの大ファンで(一緒にボートに乗れなかったあの娘です。)その子にプレゼントしようと思ったのです。それ以外にも何人かからサインをもらってきてと頼まれてもいましたが。

鈴木さんは気さくで色紙の真ん中にSONG IS LOVE Off Courseと書いて自分のサインをすると「は~い、サインだよ~」とみんなに回してくれました。
ほかのメンバーも次々とまわしていきます。
あの松尾さんも「ふ~ん、○○子ちゃんへか~」とか言いながら書いていました。
4,5枚書いてもらったでしょうか、無事、予定枚数完了!
私は何食わぬ顔で仕事場へ戻りました。

大学時代:グリークラブ、アルバイト編②

2006年11月16日 | 音楽のルーツ
その人は受付の前を通りかかって我々と目が合いました。

S君:「お名前は?」

その人:「マツオです。」

マツオ・まつお・松尾?・・・関係者名簿に名前はなく我々は困って顔を見合わせていると。。。

その人:普通に「あの~オフコースなんですが・・・」

我々:「・・・・えっ?・・・」

あ!ま、松尾さんだ~(そういわれてみれば・・・)

私:「す、すいません、どうぞ、どうぞ!」

松尾さんには悪かったが、本人はさほど気にする様子もなくさっさと楽屋の方へ歩いていってしまいました。。。

S君はまだ分からないらしく、とぼけた顔でイッヒッヒと笑ってごまかしておりました。

後で分かったのですが、S君は、なんとオフコースのことはほとんど知らなかったのです!

いまさらですが、松尾さん、あの時は大変申し訳ありませんでした~
その後のオフコースの大ブレイクを考えるとゾッとする出来事であります。

でも、はっきり言ってあの頃は小田さんと鈴木さん以外の3人はまだメジャーではなく顔と名前まではよく分からなかった、というのが本当のところでした。

まだまだ、つづきます

大学時代:グリークラブ、アルバイト編①

2006年11月15日 | 音楽のルーツ
大学のロビーには掲示板にアルバイトの募集も結構貼り出してありましたが、直接先輩がグリークラブにバイトを持ってきてくれることがありました。
そのほかにも合唱団として毎年「宮様スキー」の開閉会式には「宮様スキー」の歌を歌う特殊なバイトもありました。

さて、1年目も終わろうとしている1979年の3月頃だったと思います。
先輩がアルバイトの話を持ってきてくれました。
何かと思えば、オフコースのコンサートの会場係という話、面白そうなので同期のS君と一緒にやることになりました。

その頃のオフコースといえば、フォーク・デュオから5人のバンドに変わった頃で「愛をと止めないで」がヒットしていた頃でした。
私はそれまでのオフコースはそれほど興味がなく、このバイトもオフコースのコンサートってどんな感じだろう!?という興味本位で特別オフコースが好きだったわけではありません、この頃はまだ。。。

当日、札幌の厚生年金会館に集合した我々は、コンサートマスターらしいちょっと業界的風貌の人から2人で関係者の入り口(裏口)の受付をするように命令されました。
なんか、こういうバイトって初めてだったのでワクワクしたのを覚えています。
関係者の名前の入った名簿と、さらに「いいか、こいつらが着たら絶対入れるなよ!」と、なにやら別の紙を渡されました。
そこには女性の名前がびっしり!要するにオフコースの追っかけのブラック・リスト!

す、すごい・・・いきなりそんなものを渡されちょっとびびりましたが、仕方がないので受付に座って入ってくる人のチェックを始めました。

受付が始まってしばらくするとオフコースの小田さんが二人連れで入場。(多分清水さんと一緒だったと思います。)
おお、小田さんだ~そうか、グループだからといって全員で入るわけじゃないんだ。意外に白髪が多いな~とか思いながら、ふと外を見ると裏口の周りにはOL風の女性がずらりと並んでいます。
おお、OLに人気があるんだな~とあらためてオフコースの人気を実感。

そんな感じで特にトラブルもなく受付も少し落ち着いた頃、小柄な長髪の方が入ってきました。。。

大学時代:グリークラブ1年目総集編(後編)

2006年11月14日 | 音楽のルーツ
最終ステージは冒頭にも触れております「雪明りの路」です。

本当にこの組曲は北国の情緒が溢れる叙情的な曲で、演奏もなかなかよかったと思います。
LS君もこの曲は知っていて、最終曲「雪夜」の最後の部分。
吹雪が去ったあとの描写「案外明るくてもう路なんてなくなっているが、静かな青い雪明りだよ」という「青い雪明り」というところが雪国で暮らしたことのない人間にはわからないんだよね。なぜ青なの?白じゃないの?と聞かれるんだ。と言っていた事を思い出します。

確かに、雪明りって青い感じなんです。
あとで、もらった写真でわかったのですが、最後の曲のところで青いライトの演出がありそれがすごくきれいに写っていました。そんなことはまったく気が付かずに歌っていました。と同時に我々の演奏はスタッフのいろいろな方々に支えられて成り立っているのだということも感じた写真でもありました。

定演が終了すると、先輩がさあ、みんなロビーに出るぞ~という一声で、帰るお客さんをロビーで待ち受けます。そして、感謝の意味を込めて愛唱曲を歌って見送るのです。
これは、アフターと呼ばれ合唱のコンサートでは定番の行事。
最後は「ステンチェン」という曲をバックに団長が挨拶をして終演となります。
このアフターの雰囲気はすごく好きで、歌いながら感動がこみ上げ来たのを今でもすごく良く覚えております。

こうして私のグリー1年目はなんとか無事に終了したのでした。

大学時代:グリークラブ、1年目総集編(前編)

2006年11月13日 | 音楽のルーツ
私にとって大学生活の1年目はあっという間に過ぎていきました。

さて、高校時代の親友2人はといえば東京の大学へ進学したLS君は混声合唱団に、札幌のSS君もあの憧れのU先輩のいる混声合唱団へ入団し頑張っていました。
SS君とは同じ札幌でしたのでお互いの下宿へ遊びに行ったりしていましたが、お盆と正月には3人とも函館に帰省していましたので、3人で会いました。
3人で飲みに行くと大体最後は私の家に来て朝まで語り合うというパターンができあがり、これは卒業するまで4年間続いたかな~
お互いの近況から、合唱の話、女の子の話など取るに足りない話なのですが、いつも時間はあっという間に過ぎてしまいました。
ある時は熱く語り、又あるときはお互いをこき下ろし、そしてある時はぼろくそにけなし合い(苦笑)・・・お互いをたたえ合う・・・なんてことは絶対にしなかった。(笑)
しかし、それはお互いに認め合っていたからこそ本音で言えたことで、(と思っているのですが)3人で過ごしたこの濃~い時間はなにものにも変えられない私の財産なのです。

そして12月、いよいよグリークラブとしての初めての定期演奏会です。

緊張しましたね~緊張したことしか覚えていません。(苦笑)
たぶん、自分の思うようには歌えなかったと思います。
それでも、客演のO先生のステージと最終ステージは印象に残っております。
O先生のステージは多田武彦の「蛙」という組曲で、詩は草野心平。
これがなかなか怪しい今までに経験したことがないような雰囲気のある、そして楽しい曲でした。
普段の練習はサボりがちだった私ですがO先生のときはちゃんと出ていたような気がします。
なによりも先生のボイトレを受けたかったし。。。