高校3年生の最後のコンクールは力が入りました。
テナーは同学年が背の高いS君ともうひとりのS君。(わかりにくいのでLS君とSS君にします)そして私の3人でした。
3年になってからは私も真面目に練習にも行くようになり、3人のチームワークはだんだんとよくなっていました。
音楽部全体のチームワークも共通の目標に向かって1つになっていくのが私にもよくわかりました。
そして望んだ朝日コンクール北海道大会。
出番は何と1番目。
コンクールの場合、演奏する順番が非常に重要になってきます。
特に1番となると審査の基準がまだわからないので審査員も採点が厳しくなる傾向があるのです。
しかも、朝なのでコンディション作りも大変です。
結果はなんと最高の金賞!
しかし、金賞はもう一校あり、採点で?全国大会への切符は手にすることが出来ませんでした。
金賞をとりながら全国へ行けない。
ひとつの事をやり遂げた満足感よりも、なぜ?といったやるせなさがいつまでも心に残る結果となってしまいました。
テナーは同学年が背の高いS君ともうひとりのS君。(わかりにくいのでLS君とSS君にします)そして私の3人でした。
3年になってからは私も真面目に練習にも行くようになり、3人のチームワークはだんだんとよくなっていました。
音楽部全体のチームワークも共通の目標に向かって1つになっていくのが私にもよくわかりました。
そして望んだ朝日コンクール北海道大会。
出番は何と1番目。
コンクールの場合、演奏する順番が非常に重要になってきます。
特に1番となると審査の基準がまだわからないので審査員も採点が厳しくなる傾向があるのです。
しかも、朝なのでコンディション作りも大変です。
結果はなんと最高の金賞!
しかし、金賞はもう一校あり、採点で?全国大会への切符は手にすることが出来ませんでした。
金賞をとりながら全国へ行けない。
ひとつの事をやり遂げた満足感よりも、なぜ?といったやるせなさがいつまでも心に残る結果となってしまいました。
似たような話を思い出したので、一席。
昭和43年ころ、テレビの素人のど自慢的な番組で、沖縄予選があり、地元の14才の少女、内間明美ちゃんが優勝したのですが、その後、彼女の国籍が「フィリッピン」であることが発覚し、全国大会へは進めなかったんです。
結局、全国大会は予選2位の前原明子さんが出場。
明美ちゃんは、それでも地元沖縄の地方局の歌番組で、前原さんとともに司会アシスタントとして、セミプロ活動をしていました。翌44年秋、東京の芸能プロの社長が、その舞台を見て、明美ちゃんのほうをスカウトし、東京で華々しくデビューしました。芸名は「南沙織」でした。
という話を引用しても、あまりサミーさんの慰めにはならんかった(苦笑)
さぞ悔しかったことでしょう。
しかし、彼女もその後アイドル歌手としてリベンジ。
私も5,6年後にリベンジを果たします!?
>私も5,6年後にリベンジを果たします!?
ええええええええ!?
サミーさんもアイドルでデビューしたんですかぁぁぁ?
オハヨウゴザイマス
アセクサイガ
どこにも普通に合唱クラブってあるものなの???キュウケイ
この年は先生も勝負を賭けた年でもありました。