「日本民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
憲法建設への前文の見出しです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する。」
つまり他国の民族とその国の性格を信頼することでしょうね。
しかし「行使容認」は他国を信頼していませんと「宣言」することです。
他国は日本が我々を信頼していないなら私達も信頼できないと考えるでしょう。
必然と「敵対関係」の構図が定着してしまいます。
「われらの安全と生存を保持しよう」の決意は放棄した事になります。
他国との「共生の道」が根底から破壊される事になります。
米国も戦争に疲弊しています。
TVで米国の輸送機がたくさんの棺桶を搬送する映像を見ました。
米国では日常茶飯事のことなんでしょうね。
私は見ていてとても怖くなりました。
日本もそんな状況になるのでしょうか。
「安全と生存」は保持されるのでしょうか。
国籍や民族の違いで敵味方になるのは悲しいですね。
愚かな戦争の歴史を確認しても我々は「戦う」をやめないのでしょうか。
「互いに殺し合う」現実が遠くない将来に実現することになるでしょう。
丸腰で戦地に行くのはとても危険で勇気が必要です。
しかし丸腰の信頼を受ける事も否定できないと思います。
これはお釈迦様の教えでもあります。
イラクへの自衛隊の活動は住民に厚い信頼と感謝の念を抱かせました。
自衛隊は「戦う姿」に見えなかったでしょうね。
その経験を生かさずに「行使容認」はまさに仏界では「修羅界」に位置します。
一部の「修羅思想」に我々や他国の幸せを破壊する権利はないと思います。
「武器を持たない勇気」これこそ我々日本国民の「崇高な理想」ではないでしょうか。