こうふコンシェルジュでございます。

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スクープ!?かわらばん??やばい、もしかしてこれ、第一報???

2017年05月29日 | いろいろ、もろもろ
興奮しすぎて鼻血がでそうでごいす!

出勤途中でやばいもの、みちゃったでやんすよ!!あっしはこういうネタは人様のゴシップ同様大好物でして、どうも血沸きたつんですよ。おいおい、こりゃこりゃ、早くおみんなさんにお伝えしなきゃと思ったっつーこんで、小走りでお役所に向かってたんですよ。


そしたらですね、白い帽子を頭にのせて、麻のジャケットを羽織って、のんびり朝日を浴びながら歩いているまちのお旦那さん風情の父親が偶然市役所の向こう側から歩いて来るのを見かけちまったんですよ。

さささっと駆け寄り、「おとっちゃん、あそこのあれが、あれして、ごにょごにょごにょ」って伝えたら、「おっと、そりゃ、ビッグニュース!行ってマイル!」とそそくさと「あそこ」に小走りで向かいましたでござる。



って、なんだか、興奮のあまり、時代言葉と方言が入り乱れめっちゃクチャになってしまいました。だって、仕方ない!なんたって、今朝、私、見ちゃったんですもん。
新聞だったら
「甲府城の石垣遺構発掘!二の堀のアウトライン解明へ!」って見出し付けちゃいますよ!山梨のお米、お米が!!!そこに!って。



ふーーー

ふぃーーーーーー

よし深呼吸。


はい、
説明します。


甲府駅からほど近く、信用金庫があった場所。今からここに山梨県の駐車場が出来るところです。山梨のみなさんには通称たこ公園という名前で知られている橘児童公園の隣の発掘現場から、甲府城の石垣が出てきました。


先週そこを通った時には確認できなかった「石」が見えていました。だから、あれ?と思って、聞いてみたんです。そしたら、山梨県埋蔵文化財センターの方がすごくうれしそうに事務所に地図を取りに行き、私に説明してくれました

この石垣は甲府城の中、そのころの民から集められていた「お米」が蓄えられていた「御米蔵」があった場所で、その蔵の一部だそうです。

実は私が子供のころから普通に通っていた道は江戸時代からもあった道で
この先のたこ公園のところにお城から出る「青沼町口」っていう門があったそうです。
この道を基準に見ると、間違いなくここはお米蔵。

で、今回出てきた石垣は、信金の駐車場や植栽部分になっていたところだったので鉄筋をぶち込まれることなく、当時のままの姿が見えてきたのです。

甲府城の遺跡というと、我が家の斜め前にあるホテルの建設工事の時に出てきたのですがそれより南西方面では初めてっていうのだからびっくり!


たこ公園のところを流れる川が「二の堀」と言われていますが、このまま発掘をして石積みのアウトラインがわかれば当時の二の堀がどんな風だったのか、甲府城の調査研究の大きな前進になるそうです。

甲府城の石垣は自然石をそのまま積み上げる「野面積み」と言われる積み方です。
ここで出てきた石垣は石が水平になるように積んである「布積み」のように見えています。
これは甲府駅から伸びる道が緩やかな傾斜になっているのはわかると思うのですが、この当時お米蔵を水平に建てるために角度の調節をしていたのかもしれません。

あ、ちなみに当時の地面は今の地面より1メートルくらい下にあったそうですよ!



甲府駅前周辺は建設工事をする時、発掘作業も同時で行う場所です。それは甲府城があったところだからです。

丸の内、中央、北口、朝日という住所のところは、お城があり、武家地であった場所。今ではこの大いなる田舎のいち都市部という位置づけでいろんな建物が建ってます。

昭和時代の一時は「縄文」の遺跡ばかりに目が行き、自分たちが暮らす少し前の時代の遺跡に目がいかなかったそうです。もったいない。
「甲府城」の成り立ちなどを解明するための検証のもとになる遺跡などがその時に失ってしまっていますから、こうして、今はビルや建物の建て直しの時に調査して、記録を残すことをしているのです。



ここからまた丁寧にスコップで掘り起こし、たこ公園のところの二の堀までわかったらなんだか楽しい!
そして、この甲府城下町絵図を持ちながら今の甲府を歩くともっと楽しい!


こうなったら、甲府城建設前の遺跡も掘り起こしてみたらいいのに!って思うのですが、どうでしょう?
ローマのフォロロマーノならぬ、フォロコウフーノ見てみたい!!!!




恒久的に。児童のしあわせ。

2017年05月24日 | 甲府・教育
先日、甲府市民生委員・児童委員協議会では、市内25の小学校に額に入った『児童憲章』を贈りました。民生委員制度が大正6年に創設され100周年、児童委員制度が昭和26年に創設され70周年の記念です。
民生委員、児童委員の方々が小学校に行き、校長先生に手渡しました。




われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。

児童は、社会の一員として重んぜられる。

児童は、よい環境の中で育てられる。

一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。

二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。

三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。

四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。

五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。

六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。

七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。

八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないよう
に、十分に保護される。

九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。

十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。

十二 すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。


昭和26年5月5日に制定されました。

戦争で全国のあちこちのまちが焦土と化し、経済も、体制も、すべてが変わり、命をつなぐことさえも大変な時代を乗り越えた、6年後の事です。

平和を切望するその時代は、もしかしたらこどもの事どころではなかったかもしれません。だからこそ、作られたのでしょう。



実は児童憲章を私は知りませんでした。
読んで、震えました。

子どもだったころに「私を大切にしてください。私を守ってください」という権利を主張することなく、絶え間ない愛を、取り巻くあらゆる大人から注がれ、大人が守ってくれた愛があったんだと、改めて認識して感謝しました。
親だけでなく、子どものころの私の小さな世界を構成していた、親戚、ご近所さん、お父さん、お母さんのお友達、学校の先生、そして、その大人たちが構成する社会にです。




なんだかいろんなことが大変な時代。
児童憲章を今一度、確認しなければいけないような事が日本のあちこちで起きています。
戦後の「渇望」していた時代とは比べ物にならない満ちた時代になっているのにもかかわらず、です。

そして世界に目を向けると、もしかしたら今という時代もまた、平和を切望する時代に突入しているのかもしれません。


農を継ぐ者。

2017年05月12日 | 甲府・四季の姿
東京は大手町の、とあるレストランで。


千葉県産タラのロティ べんり菜のクーリー添え

鶏肉のソテー わさび菜のピストゥーソース

自家製ポークパテとのらぼう菜のテリーヌ

からし菜 ルッコラ わさび菜のミックスサラダ

春菊のパスタ

なすとトマトのチーズ焼き

春菊のブレッド


食べるものすべてが、驚く程おいしくて、タラのロティべんり菜のクーリー添えは、それこそ、ペーストをなめるように食べてしまいました。チーズが大好物だから茄子とトマトのチーズ焼きは独り占めにして食べてしまったし、わさび菜のピストゥーソース、のらぼう菜のテリーヌも、春菊のパスタや、ブレッドも、なんて言ったらいいのだろう、ほんとに、その野菜がただの添えに終わらず香りが豊かで、存在感がありました。
思わず、「この料理、素晴らしいですね」とお店の人に伝えました。

シェフはこの方
名前を言ったら料理人の方たちはピンとくる偉大な父親を持ち、ご本人も国内外の一流レストランでシェフとして活躍されてきた方です。そのことを知らずに料理の提供あり、という心構えだけで行ったので、後から聞いて納得したのと得した気分になりました。

この日はちょっとしたカジュアルな会でした。実は提供されたメニュー、全てに共通していることがあります。

それは「甲府・中道で作られている野菜」が使われているということ。

野菜を作ったのは彼2014年の大雪災害ボランティアをきっかけに、決まっていた就職の内定蹴って東京から甲府の中道地区に農業やるために新卒移住して来た菅沼君です。

会は「菅沼が作った野菜は美味いのか!?みんなで食べて品評会@東京」だったのです。


素材の滋味豊かな味わいを様々な料理法で十二分に引き出してくれる一流の技をもったシェフと、命を懸けて作った菅沼君の野菜がつながったことで、日常の食べ物がとびきりなものになりました。



今年は菅沼君にとって移住して3年目の年です。彼はひたすらに農業に取り組んでいます。東京に住む仲間とともに菅沼君が住む甲府の中道をベースに「農継者」というグループをつくっています。この会はこの農継者の活動報告でもあり、大学生、農大の教授、農協関係者など、さまざまな農にかかわる人が参加していました。



「農継者」は実践する人の集まりです。農業体験や就農支援、初めての人へのミニツアー、地域農家さんのお手伝いの派遣等を通じて山梨の農業が抱えている問題を解決していくための仕組みづくりをしています。
活動の一つ「中道1000人プロジェクト」は、農業体験を通じて甲府市中道地区に若者を呼び込むというプロジェクトです。2020年の東京五輪閉会式までに1000人を中道に呼び込み農業体験させることを目指しています。トウモロコシの収穫やルッコラの植え付け体験のほか、インターンの受け入れや、中道の野菜でバーベキューもするそうです。すでに、4月15日には東京の学生が桃の授粉作業に挑戦したそうです。

5月20日にはスモモの摘果作業体験をするそうです。



この会場に、農継者のみなさんの発表やJA全農の方の話食い入るように耳を傾け、シェフに質問するなど積極的な青年がいました。


市川君です。

もともとは、去年の山梨・静岡・長野で合同で開催した3県合同セミナーに訪れ、甲府市ブースで「農業をして生活をしていきたい」と相談を受けたのが出会いでした。その出会いがきっかけになって甲府市が主催した中道地区での就農体験ホームステイに参加。その時の様子をまとめたVTRには菅沼君、市川君ふたりの姿を見ることが出来ます。


そしてこれが縁になりました。彼は中道地区の方たちとつながり、駒をひとつづつ進めていきました。
甲府の中道地区に移住し、この4月から山梨県農業大学校で本格的に農業を学び始めています。
出会いは去年の夏の終わりです。




農業を軸に、つなぐ。
人、農業、生活全て。
つないだ先には我々の生活が必ずあるのですから、そんな大切な基本を支えてつないでく方とともに歩めたらいいなと思います。