最近,エリート教育を標榜する中高一貫校などが話題になっている。
また,日本でも,横並びの教育ではなくて,
世界に通用するエリート教育が必要だという議論もあるようである。
果たして,現在の日本でエリート教育が可能だろうか。
エリートを,知的な側面でも,
人格的な側面でも秀でた人物と捉える人々の間で
イギリスのパブリック・スクールを模範にして・・・とか
ノーブレス・オブリージュが必要などという言葉を聞くが,
歴史や文化の相違を捨象してこのようなものを取り入れることは
不可能である。
『自由と規律』などに描かれている
古きよきパブリック・スクール教育の精神は
階級社会の中で高い階級に位置するものが
その階級にあることに伴う義務や倫理を教えるもので,
そのために過酷な修練をも与えている。
ひるがえって日本では,
そもそもノーブレス自体が存在しない。
せいぜい,商工業ブルジョワジーか
「知的」エリートが存在するのみで,
彼らは階級としては,市民階級である。
ブルジョワジーが,
自らをノーブレスであると称する社会は,
拝金主義におちいる。
なぜなら,ブルジョワジーがノーブレスであるとすれば,
ノーブレスであることは金によって維持されているからである。
この点,真のノーブレスが,
職業労働から解放されていたことと
大きく異なる。
ノーブレスは,無一文であってもノーブレスである。
「知的」エリートもまたノーブレスではない。
「知的」エリートは,テクノクラートにはなり得ても,
ノーブレスにはならない。
テクノクラートは,プロフェッショナルであって,
やはり職業人なのである。
アマチュアリズムを保持し続けるノーブレスとは
大きく異なる。
こう考えると,日本において,エリート教育と称し,
そこに古きパブリック・スクールにおけるような
人格の陶冶を求めることは全くの論理矛盾である。
日本において,もっとも成功したエリート教育は,
旧制高校における教育であろうが,
旧制高校に入学できる者は,
すでにさまざまな淘汰を経ている者たちであり,
彼らがやがて大学を経て社会に出たときに
その特権が社会的に認知されていたからこそ,
擬似的な階級を形成することが可能であったと考えられる。
大衆化した現在の中等教育において,
エリート教育を標榜することは上記の考察からみて
ほぼ不可能である。
エリートといい,ノーブレス・オブリージュというとき,
その本質をつきつめて考える必要がある。
日本でこの言葉が使われるときは,
せいぜい,ブルジョワジー志向か,
テクノクラート志向にすぎず,
そこで必要なのは,ノーブレス・オブリージュではなく,
職業倫理である。
日本の志向するエリートとは,
優れた職業人にほかならず,
その意味でのエリートの育成のためには,
中等教育までは普通教育をほどこし,
高等教育段階の職業専門の学校を拡充し,
専門的知識と職業倫理を叩き込むことが
最も有効な手段である。
しかしこれはエリート教育というより
職業専門教育である。
ともあれ,
職業人を,職業人以上の「階級」とみなすことは,
極めて危険なことである。
それゆえ,日本のエリートをノーブレスと混同する論調は,
はなはだ危険である。
むしろ,自らを一市民に過ぎないと
認知していることが大切で,
そのほうが健全である。
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世界に通用するエリート教育が必要だという議論もあるようである。
果たして,現在の日本でエリート教育が可能だろうか。
エリートを,知的な側面でも,
人格的な側面でも秀でた人物と捉える人々の間で
イギリスのパブリック・スクールを模範にして・・・とか
ノーブレス・オブリージュが必要などという言葉を聞くが,
歴史や文化の相違を捨象してこのようなものを取り入れることは
不可能である。
『自由と規律』などに描かれている
古きよきパブリック・スクール教育の精神は
階級社会の中で高い階級に位置するものが
その階級にあることに伴う義務や倫理を教えるもので,
そのために過酷な修練をも与えている。
ひるがえって日本では,
そもそもノーブレス自体が存在しない。
せいぜい,商工業ブルジョワジーか
「知的」エリートが存在するのみで,
彼らは階級としては,市民階級である。
ブルジョワジーが,
自らをノーブレスであると称する社会は,
拝金主義におちいる。
なぜなら,ブルジョワジーがノーブレスであるとすれば,
ノーブレスであることは金によって維持されているからである。
この点,真のノーブレスが,
職業労働から解放されていたことと
大きく異なる。
ノーブレスは,無一文であってもノーブレスである。
「知的」エリートもまたノーブレスではない。
「知的」エリートは,テクノクラートにはなり得ても,
ノーブレスにはならない。
テクノクラートは,プロフェッショナルであって,
やはり職業人なのである。
アマチュアリズムを保持し続けるノーブレスとは
大きく異なる。
こう考えると,日本において,エリート教育と称し,
そこに古きパブリック・スクールにおけるような
人格の陶冶を求めることは全くの論理矛盾である。
日本において,もっとも成功したエリート教育は,
旧制高校における教育であろうが,
旧制高校に入学できる者は,
すでにさまざまな淘汰を経ている者たちであり,
彼らがやがて大学を経て社会に出たときに
その特権が社会的に認知されていたからこそ,
擬似的な階級を形成することが可能であったと考えられる。
大衆化した現在の中等教育において,
エリート教育を標榜することは上記の考察からみて
ほぼ不可能である。
エリートといい,ノーブレス・オブリージュというとき,
その本質をつきつめて考える必要がある。
日本でこの言葉が使われるときは,
せいぜい,ブルジョワジー志向か,
テクノクラート志向にすぎず,
そこで必要なのは,ノーブレス・オブリージュではなく,
職業倫理である。
日本の志向するエリートとは,
優れた職業人にほかならず,
その意味でのエリートの育成のためには,
中等教育までは普通教育をほどこし,
高等教育段階の職業専門の学校を拡充し,
専門的知識と職業倫理を叩き込むことが
最も有効な手段である。
しかしこれはエリート教育というより
職業専門教育である。
ともあれ,
職業人を,職業人以上の「階級」とみなすことは,
極めて危険なことである。
それゆえ,日本のエリートをノーブレスと混同する論調は,
はなはだ危険である。
むしろ,自らを一市民に過ぎないと
認知していることが大切で,
そのほうが健全である。
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