子どもに起こるさまざまな問題の原因が,
学校教育にあるかのように語られることが多いが,
本当にそうだろうか。
単純に考えてみよう。
よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
みんな,悪い大人になっているであろうか。
よい学校教師にめぐり合った人が,
みんな,よい大人になっているであろうか。
よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
優れた成果をあげることはないだろうか。
よい学校教師にめぐり合った人が,
凡庸な一生を送ることはないのだろうか。
学校教育が,
その人の生涯に重大な影響を及ぼすほどの力をもっていると,
果たして言えるのだろうか。
せいぜい,そういう場合もあるという程度のことではないか。
学校や教師の影響を過大評価しすぎてはいないか。
好影響も悪影響も,
振り返って冷静に考えてみれば,
実はそれほど大きなものではない場合が多いのではないか。
学校教育の成果や失敗をことさらに強調する議論には,
いつも危うさがつきまとう。
自信満々の教師は,子どもの成長を
己の教育の成果と誇らしげに語る。
学校に好印象を持てなかった者は,
己のふがいなさの原因を
学校や教師のせいにする。
もしかしたら,
子どもの成長に及ぼす学校教育の影響を
もっと小さく考えてみる必要があるのではないか。
本当に,それは学校教育のせいなのか?
振り返って,冷静に判断してみると,
新しい視野が開けてくることもあるような気がしてならない。
学校教育にあるかのように語られることが多いが,
本当にそうだろうか。
単純に考えてみよう。
よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
みんな,悪い大人になっているであろうか。
よい学校教師にめぐり合った人が,
みんな,よい大人になっているであろうか。
よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
優れた成果をあげることはないだろうか。
よい学校教師にめぐり合った人が,
凡庸な一生を送ることはないのだろうか。
学校教育が,
その人の生涯に重大な影響を及ぼすほどの力をもっていると,
果たして言えるのだろうか。
せいぜい,そういう場合もあるという程度のことではないか。
学校や教師の影響を過大評価しすぎてはいないか。
好影響も悪影響も,
振り返って冷静に考えてみれば,
実はそれほど大きなものではない場合が多いのではないか。
学校教育の成果や失敗をことさらに強調する議論には,
いつも危うさがつきまとう。
自信満々の教師は,子どもの成長を
己の教育の成果と誇らしげに語る。
学校に好印象を持てなかった者は,
己のふがいなさの原因を
学校や教師のせいにする。
もしかしたら,
子どもの成長に及ぼす学校教育の影響を
もっと小さく考えてみる必要があるのではないか。
本当に,それは学校教育のせいなのか?
振り返って,冷静に判断してみると,
新しい視野が開けてくることもあるような気がしてならない。
老人になると、筋力低下や体力の衰えなど機能低下が現象として現われます。身体的衰えとともに、定年を迎えれば社会とのつながりの喪失など喪失体験をします。勿論、老人の精神面は衰えることなくより深化していきます。
老人になる前の壮年期の発達課題について、エリクソンは「世代性」をあげています。次代に伝承し、その発展に寄与する役割を発達課題としています。
学校が今叩かれているのは、社会の変化に順応していかなければならないところがある!という意見表明です。学校の老化に対しての意見表明といえます。
もっとも、教育には「普遍」があり、変えてはならぬところがあります。戦争や平和に対する姿勢や民主主義社会に必要な考え方などです。
私は、子どもの発達に関わる職であることの重みとやりがいは、医療での命の重みとやりがいとの違いはそうないと思います。
医療界では、その人の命の選択はその人に委ねるようになってきていますから、医療職はその選択に必要な知識を与え、選択を支える立場になっています。つまり、専門職とは「そのことをよく知っている人間」であり、全面的に支援する人間とは違うのです。
老人しかり、機能低下でできなくなったところを支援する介護者がいて「自律」することができます。「主体が誰か」、を考えなくてはなりません。
さらに,「支援」という言葉が跋扈したことで,どんなに教育現場が荒廃したことでしょう。自分の目で見て,自分の頭で考えるとことは大切なことです。
「学校教育のせい」
学校教育のどの部分のせいか・・・その点をはっきりさせて記事を書かなければ誤解を招くと思います。教師とか教育内容とか、あらゆる点を含めてということなのだとは思いますが。
私は社会全体の学校に対する過大評価が問題なのだと思います。その点ではmadograhosさんと近い考えだと思います。
イギリスでは産業革命以降、労働力として子どもを酷使する工場が増え、その救済策として教育制度が発展していきました。いわば、子どもの避難所です。日本では維新後、富国強兵策は表向き、失業した武士の職場として学校制度が作られていった経緯もあります。ただ、そこからが間違いの始まりだったわけです。官僚制度は古い中国の制度を真似てペーパーテストで知識の多い者に就かせる。そんなシステムを始めたばかりに、それが延々100年以上も続いているのです。学校はそのための予備校。その頃から、学校の運命が決まってしまったわけです。立身出世の手段。しかもリセットできないシステム。
戦後いくらでもやり直す機会があったのに、今度はどこかの勢力に躍らせられて半ば強迫観念のように学校を神聖化して。
でも、madographosさん、子どもの頃にどんな時間を過ごすかということは人生にとても多くの意味を持っていると思います。学校教育のどの部分であるかは人それぞれでしょうが、たかが学校されど学校なんです。子ども時代に過ごす場所、それが学校であるからこそ、その重要性が論じられるのだと思います。
国民育成の方向性も定まらず・・・2,3日前の新聞にこんなことが書いてありました。
某公立高校が11年度に廃校の運びとなる。この高校に行っている生徒は、中学生の時、担任に「お前の入れるのはここぐらいしかない」と言われて、入学した。この生徒は入学式の時、校歌が斉唱されず、音楽だけのテープが流され、自分の入った高校はこんな高校なんだ、卒業した中学だってブラバンが演奏したのに、と思ったという。
我々大人がああだこうだと論じている間にも、この現状の中で育っていく世代があるのです。不登校、暴力、子どもたちの中でどれほどの抑圧があるのか。たまたま制度を支配する側にいる人間が思いついたことがどれほど酷い状況を引き起こしているのか。
公立の中高一貫校を作れば、高校からの入学者数が減らされるのです。公立高校の定員は確実に減らされているのです。目先の政策で国民をごまかしながら、確実に格差社会は実現されようとしているのです。
むこうとこちら。教育とはそれを繋げるためのものであったはずなのに。
同感です。しかし、それでは何もしないということでしょうか。現実にある不平等をそのままに受け入れろと。
一大産業となった教育産業界に殴り込みを掛けても勝ち目はありませんから・・・。
論旨が見えないのは申し訳ないとは思いますが、論文ではないインターネット上であり、ざっくばらんにこれまでの医療界での経験知からの発想と学校現場で感じたことを混ぜて書きました。
「支援」という考え方が現場を混乱させたのは確かなことでしょう。新自由主義への転換、市場原理主義社会のなかで「やってもらって当たり前」となった社会状況からすれば、「やっかいもの」ですね。
子どもたちの多様性は、発達障害を含み、ノーマライゼーション、インテグレーションの動きと相まって、教育現場に「個別性」に配慮することを求められています。ただ、教育現場ではマンパワーの不足やスキル、システム等さまざまな困難・課題があり、現在の状況では受け入れられない、ということでしょう。
私は一教員であるため、政策に関わるような意見ではなく、一個人として感じ思ったことを書きました。教育現場における硬直性が社会との隔壁となり、理解し合おうとするよりも背中を合わす姿勢となっていること、教員の平均年齢が45歳前後と高齢化していること、若い世代の教員の育成や意見が尊重されないこと、そして何よりまず、教員が「主体」となっている教育現場から子ども「主体」への転換が必要であり、そこには発達の視点が必要であること、これらが合わさって論旨の見えない文章になりました。
実は、教育における「支援」という言葉は、教育の視点の取り方が180度変わることです。人間は死を目前として考え方が変わった、よくある話ですが、それと似たショッキングなことであり、受容までには葛藤がありますし、歴史があればこそ受け入れがたいものです。
専門職化は、社会の職業の差別をなくそうとする動きでもあります。看護職が医師の下働きからの脱却に大きく貢献しました。教育界ではまだ昔のイメージがあり、不愉快を感じます。医療界は変化が激しく、それに必要な知識や技術を更新するために学習しています。教員の研修会で舟を漕いでいる人が目立ちますが、他の職種を馬鹿にしたり、批判する前に、自らの姿を見つめ直してほしいと思いました。
教育現場に対する批判は、けして外側からだけではありません。自らの反省や問題発見・解決に向けて、そろそろ動き出さなければならないのではないでしょうか。
さて,学校を変えなければならないと思うのであれば,学校を自分の力で変えればよいのです。教育界に不愉快をお感じならば,不愉快でないように自分で教育界を変えればよいのです。学校現場にいらっしゃるのならば,当事者として学校現場の現実と取っ組み合うべきです。目の前にある現実と自分自身だけの力で苦しみながら戦っていくこと,そのことにのみ教育の希望があります。そして,目の前の子どもに自分は何ができるのか? その問いだけが,教師にとっての真実の問いなのです。私は,学校現場で逃げ場もなく立ち往生したことのない人間の無責任で声高な批判や,学者の思いつきのような空理空論は一切受け入れないことにしています。
教育現場の率直な内容を聞かせていただき、管理人さん、ありがとうございます。
私は学もなく皆さんが書いている内容は、正直難しく理解不足なところもございますが、意見を書かせてください。
私の息子は、最近、学校から帰ってくると担任の先生の話をします。
「○○先生もドラクエやってるって」とか、「○○先生って、タレントの○○が好みなんだって」とか・・・。
話を聞いていると、担任の先生が、子供達に目線を合わせて接して頂いており、子供も先生を慕っているのが伝わってきます。
担任の先生には、参観日にお会いしましたが、大学出たてで年も私より随分と若く、話の内容は、幼稚なような気もしましたが、生徒のことをとても熱心に考えてくれており、明るく好感がもてました。
ですから、私も息子が先生の話をするたびに、
「宿題ちゃんとやったか?」とか、「授業中おしゃべりすんなよ。」とか、「先生の話は、ちゃんと聞けよ」等アドバイスするようにしております。
子供が学校での出来事を、話してくれるのも学校教育のおかげだと感謝してます。
だからこそ、学校教育は重要だと思います。
決して、家庭での教育を責任転嫁するつもりはございませんし、家庭での基本的なしつけは、重要だとも思ってます。
でも、やはり、子供は、日中の大半の時間を学校で過ごす訳ですから、教師のことは、聖職者だと信頼し、大いに期待しております。
いろいろと世知辛い世の中で、教育現場も大変でしょうが、頑張ってくださいませ。
私は看護師時代(20代)、医師に(間接的に経営者に)体当たりしてきました。患者が中心ですから自分の利益など考えていませんでした。30代近い頃、自分より若い世代の指導者となり、病棟運営などに考えが及ぶようになりました。
教育界では組織の成り立ちが違うこと、文化や風土といった目に見えないものがあることを理解した上で、変革を願って動きたいと思っています。
意見の対立、そして和平への歩みは、けして取っ組み合いでは解決しないと思っていますし、単独で解決できるものではないことを知っています。
私は立ち往生した経験のない人間でもないですし、学者でもありません。むしろ、理不尽な環境を自分で解決しなければならなかった経験やさまざまな人々の理不尽な境遇に添わなければならなかった経験があり、そこから意見する者です。
教育は、「進学に必要な学力」だけですか?
「教育愛に基づかない貴方本来の人間から滲み出る、人間の本質」は、子どもには「何ら影響がない」のでしょうか。
私は否定します。「教育」の本来的意味は、貴方自身であることに、私は気づいています。
学習指導要領は「形」です。貴方が伝えたいこと、それを言葉の端々に入れることです。ここで書いていずに、現実で「私はこう思うが」と、I メッセージで伝承することです。
>けして取っ組み合いでは解決しない
私の言っている「取っ組み合う」というのは,「四つに組む」という意味です。お間違いなく。
>私は立ち往生した経験のない人間でもないですし、学者でもありません。
あなたのことを言っているわけではないことは,文脈からお分かりかと思いますが。
>そこから意見する者です
私がそのご意見を拝聴する必要が果たしてあるのでしょうか?
>教育は、「進学に必要な学力」だけですか?
私はそのような主張をどこでしたのでしょうか?
>「教育愛に基づかない貴方本来の人間から滲み出る、人間の本質」
>「教育」の本来的意味は、貴方自身である
意味がよく分からないのですが。
>ここで書いていずに
その言葉は,そのままあなたにお返ししましょう。
以上,勝手なことを申し述べました。ご容赦ください。
私は教育に関する学びのなかで、教師主体から子ども主体に双方向に変化してきたこと、教員が聖職者→労働者→専門職と変化してきたことを学びました。私はまっさらな学生ではありませんから、受動的学習態度でなく「何でか」「何が問題か」「何が解決すべきか」を考えながら、また社会の実情と変化の過程を照らし合わせ、学習してきました。勿論、現場に入ってからも理論と現実の狭間にある問題を思考し、現在に至っています。
教員は、とかく批判的意見には弱く、異なる意見を認めるよりも攻撃したくなるようです。論を展開するよりもむしろ重箱の隅をつつくことをしがちです。これは職員会議等でもあることで、これは子どもと同じではないか、と思う場面もあり、「大人でしょ?」と首をかしげることもありました。
私は専門職化に基本的に賛成の立場です。教員の聖職者から労働者への転換は、「国家権力からの離脱」と「教育の本来的意義に立ち戻る」意味で必要でした。教員の「労働者から専門職化」は、実は、「教育の成果である大衆の教育水準の向上」が、それを暗黙に要求するようになってきているために起こっていることだろうと考えます。
教員が聖職者、労働者だといわれた時代、大衆の教育水準が低かったのです。ですが、現代では大学卒の親は多くいます。大卒のラベルだけではありません。学生時代に培った学力を、それぞれの専門分野で形を変え、そこにあった知識を培い活用しているのです。学生時代に学んだ事柄が、すべて仕事に活用できるものではありません。あるものは高度に、あるものは忘却し、仕事に必要な知識や技能となっているのです。だから、親は自分の知識が子どもが学んでいる学習に専門職として適切な教育を施してほしいと考えることは、不自然なことではありません。
戦後から今日までの教育は、次代の社会の形成者のために行われてきたのではないのですか。知的水準が向上した親世代に対し、教育の成果と反省をせぬまま、聖職者への回帰は意味のないこと、権力よりも高度な知識を求めるのは当然に思います。
さて、私はあまり言葉尻を捉えていうのは好みませんが、「目の前にある現実と自分自身だけの力で苦しみながら戦っていくこと,そのことにのみ教育の希望があります。」と述べていることに対して、私も個人で考えつつ(以前に自分の目で見て自分で考えることとありましたから)他者が必要であることを発言しました。そして、空理空論を受け付けないとのこと、だから空理空論ではなく現場にいることをお知らせしました。さらに、発達障害は養護学校にいます。養護学校にこないうちは一般校で教育を受けます。学校とは、進学に必要な学力さえ与えればよいか、そうではありません。だったら塾でいい。現日本の教育は、人格形成をも教育基本法にうたわれ、従来から担っていることです。ここで、大衆に呼びかけることに不適切と考えますし、教育の本来的意義を見失っていると指摘します。進学に必要な学力を与えられなくとも、人間としての何かを「伝え教える」役割があり、それを担っている教員であるからこそ、それを見失っている教員に対し批判するのでしょう。
私は、何で「老人・老化」をとりあげたのでしょうか。老人は機能障害を抱えます。ある意味障害者です。癌であれ、糖尿病であれ、認知症であれ、関節症であれ、白内障であれ、さまざまな障害を抱えるでしょう。どのような機能障害であっても、他者の力を借りることになるのです。そのような時、子どもの力を必要としても、子どもは働き盛り、自分の家庭を切り盛りするのに精一杯で、親の介護ができない、と言うでしょう。当然です。貴方が教員の多忙などでできない、といった理由と同じです。優先されるべきは息子や娘ですから、ほかは自分でやってくれ、か、ほかをあたってくれ、です。「他人に押し付ければ何とかなる」と思っています。
自分のやりたいこといいたいことに躍起になっているうちに、自分がその対象になっていくことに気づいていない、最も哀れなこと。これは、けっこう死ぬ間際に現れることです。
長くなりました。失礼しました。
このエントリーは,教職の専門職化について書いたものではありませんし,養護学校や発達障害,老化についてのエントリーでもありません。
何でも学校のせいにされてしまうと、学校側の人間はついつい何でも背負い込んでしまいます。それは、現場にとっては悪い結果につながっているのではないかと思います。
学校に対する過大な期待と、過大な依存があり、一方では過小評価や理不尽な批判があります。
もう少し教育の責任の所在や学校の効果の限界を明確にしていく必要があると思います。学校なんてこの程度という「見切り」は絶対に必要だと思います。
久しぶりに訪問しました。
それは本当に学校のせいなのか?
という問いにハッと気付かされました。学校は私を苦しめた。で思考が停止してしまっていた気がします。本当にそうなのか、改めて考えることで別の視点が開け、学校とはどういう場所なのか、自分の学校という場での経験、今の状況、過去の状況、そして未来の姿をも見渡してみると意外に違う何かが見えるのかもしれませんね。考えさせられます。ありがとうございます。
また訪問しますね。