突き詰めて考えれば,
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。
それは,「本音で語る」ということである。
教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。
それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。
学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。
「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。
それは,「本音で語る」ということである。
教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。
それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。
学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。
「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。
現場の教職員は、教育学者や教育関係者の影響をそんなに受けているんですかね。
『だから,現場の教職員も綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと思い込んでいる。』
という言い方は、少々責任逃れのように聞こえます・・・
誰が言い出したのか知りませんが、こうした誠に無責任な綺麗ごとを背負わされ、教師たちは気の毒です。
PC(ポリティカルコレクトネス)を遵守しなければならない現代の教師たちは、現場で本音とは程遠い言葉を使うしかないのでしょう。
現代社会で教師は社会的地位が低く、なおかつ奴隷のようにPCに屈従しなければならない呪われた職業となりつつあるように思われます。
本音か綺麗ごとか見抜く力を持つ子どもたちには、教師はますますバカにされます。
本音で勝負しなければ、生徒たちからの信頼や、自己実現の場を失う一方で、本音を語ればモンスターペアレンツや世間から袋叩きにされるというジレンマに陥っています。
学生の頃、授業で「現代日本で 特定の人間を人知れず闇から闇に葬り去るのは簡単です。君たちがそうならずに生きているのは、重要な人物ではないからです」と言われてびっくりしましたが、いまや不特定多数の人間すら闇から闇に葬り去られうる時代になってしまいました。
あの教師の発言は、今なら新聞沙汰になりかねませんが、私には脅しや威嚇ではなく、現実的なインパクトがあり印象に残っています。
個人の尊厳や、社会のあり方についてより深く考えようという動機付けになりました。
あんな時代には戻れないでしょうし、本音で勝負しようなんて考えもしないか、机上の空論を自分の本音と勘違いするつまらない教師が増えるのでしょうね。
さてそこで、ここから多様性、個性でしょう。読んだ人の行動への影響を与える課題の発想が個人ごとに違います。解決策も、実行力も、社会への影響力もです。
私は非力な一市民です。やって良いことは無限ですが、すべて影響力は蚊の鳴くほどの声と自戒しています。生きている限りほとんど何でもしていいわけ、できるできないは別にしてです。
何故私がしつこく管理人様の昔の記事にコメントしているか分かりますか。家事で結構忙しい身なのにです。私は直感で生きてきた創造性命の高齢者。管理人様は優れた教育者であり、立場も能力も持って居るお方だと以前より感じていたからです。
私の思いが少しでも管理人様に影響を与えられることを願って、これも修羅の道の一部なのでしょう。結果など何でも良いのです。南無阿弥陀仏で済ませられるからです。管理人様の周りにいる優れたお方が私のコメントを目にするかもしれないし。
いつも本音ばかりですみません。ありがとうございます。