現在の教育の混迷は,ひとつには,「子供のよさを認めよう」という動きが強まりすぎ,学校の研究課題などに「よさ」という言葉が氾濫しだしたことに起因している。なぜなら,子供には「よさ」もあれば,「わるさ」もある。そのいずれをも冷徹に観察するのがプロフェッショナルとしての教育者である。ところが,この「子供のよさを認めよう」という動きは,「わるさ」に目を向けることを避けさせるように作用しすぎた。確かに減点主義のはびこっていた教育現場にあっては,子供の「よさ」を認めようとする姿勢は一定の教育効果を生んだであろう。しかし,これは,バランスの問題であって,「よさ」を認めることがすなわち教育の改善につながったわけではないのである。そこのところをはき違えてしまったのではないかと思われる子供中心主義者の跋扈には辟易している。
私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。
私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。
>ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,
今は、「自然体」でいることが難しい時代だと思います。
教育理論は言語で表現できているもの(というか言語そのもの)ですが、「自然体」はなかなか言語化できるものでありません。
イマドキは、「言語による、聞く人を納得させる説明」を時に強く要求されます。ですから、言語による説明が不能なもの、困難なものを否定しがちになります。
「自然体」もその一つではないかと思います。その結果、教員は、自自然体でいることが難しくなってしまったのではないか、と思います。
作文など、成城学園に評価がなかったから下手な程度が分かりませんでした。お蔭かどうか分かりませんが、芥川や漱石や太宰は好きですが、志賀直哉やノーベル賞作家の作品は嫌いでした。今の何とか賞の作家など読む気にもなりません。
お前は書けるのかと言われたら、私はプロでないから書けないし、どこが嫌いなのかも良く分かりません。それで良いのでは。要するにすべての結果は下駄をはくまで分かりません。
もちろん会社の書類は1分で評価されてしまいます。それが現実社会の評価法。如何に評価される資料を作るかが勝負。残念ですが、国語の時間の作文は真逆の能力の養成になっているようです。
非正規社員を目指さざるを得ない学童が哀れです。南無阿弥陀仏。