「論理国語」という科目ができるそうだ。学習指導要領もここまで馬鹿げたものになってきたかと感慨深いものがある。
そもそもネーミングセンスが奇抜である。「論理」と「国語」をそのままくっつけるという国語センスに呆れ返る。
まあ、「生きる力」あたりからネーミングセンスは崩壊しているのであるから仕方がないとも言えるが、末期的である。
一つだけ言えることは、漱石の作品を味読できる力のある人間が、取扱説明書とかマニュアルとか契約文書とかを読みこなせないなどということは想定できないということである。
国語の場合、文学作品を通してでも日本語の論理は十分身につくはずであることは、しっかりと国語を勉強したことのある人間ならば当然、分かることである。文学は情緒だけと考えている人がいるのだとしたら、義務教育からやり直したほうがよい。
そもそも、歴史的に見て、文学的な文章と論理的な文章は分けられるものではない。言葉で表現されたものすべてを扱うのが、西洋のlitteratureあるいはlettersであり、日本でいう文学である。言語で表現されたものは総体としてある洗練された表現を駆使した論理であり、論理をレトリカルに表現したものでもある。
教育行政に影響力をお持ちの方に、古今の文学を味読する時間的余裕を与えてあげてほしいものである。
私は英語も日本語もドイツ語も倫理だと思います。改めて論理国語なる教科があることも知らないド素人ですか、機械翻訳や語彙、文章理解に関しては一応研究部長を会社でしました。
文化、歴史、国土、自然が各国で違い、語彙や言語に違いが出来ました。言語は自然発生的でした。最近はそうとも言えず、お金で語彙が作られると思います。
日本語は四季のある極東の島国故に生まれた素晴らしい言語だと思います。日本語文法が西欧の物まねで作られたのが間違いの元。言語学者が安直過ぎたと思います。
契約書や,トリセツ,マニュアル本,プレゼン資料を読む力は大事で,洋の東西あまた積み上げられてきた哲学や文学の古典などを読む力はどうでもいい,ということですよね。そのようなものを読み解き,価値を感じとることには,広く深い教養がバックに必要です。いまの指導要領の議論をしている人達には,そんな力がなかったのでしょう。残念なことです。