「教育可能性」という言葉がある。
学校でいえば,
教師の教育活動によって,
子どもが教育される可能性のことである。
この言葉はたいへん深みのある言葉である。
可能性であるからには,
不可能であることも想定し得るのである。
つまり,教師が教育しても,
子どもが教育されない可能性があるということである。
考えてみれば,あたりまえのことである。
子どもは,意識的にせよ,無意識的にせよ,
教室にきちんと座ってはいても,
教育されないことを選び取る可能性がある。
教育されるかされないかは,
実は,子どもの主体的選択にまかされていると言ってもよい。
そして,その子どもの主体的選択は,
大人が教育活動の工夫によって,
完全にコントロールできるものではない。
ところが,我が国の教育論は,
この教育可能性を過大評価する傾向が強い。
すなわち,教師の働きかけによって,
子どもの教育が
完全にコントロールできるかのような論を立てるのである。
この論の立て方からいくと,
子どもの教育がうまくいかないのは,
教師の働きかけのまずさによるということに
簡単に帰着してしまう。
確かに教師が原因で,
教育がうまくいかないことも多い。
しかし本当は,
子どもの教育をコントロールする教師の力には限界がある。
そして,そこに学校教育の限界がある。
このことを丁寧に見つめた上で,
教育を語るべきではないだろうか。
学校でいえば,
教師の教育活動によって,
子どもが教育される可能性のことである。
この言葉はたいへん深みのある言葉である。
可能性であるからには,
不可能であることも想定し得るのである。
つまり,教師が教育しても,
子どもが教育されない可能性があるということである。
考えてみれば,あたりまえのことである。
子どもは,意識的にせよ,無意識的にせよ,
教室にきちんと座ってはいても,
教育されないことを選び取る可能性がある。
教育されるかされないかは,
実は,子どもの主体的選択にまかされていると言ってもよい。
そして,その子どもの主体的選択は,
大人が教育活動の工夫によって,
完全にコントロールできるものではない。
ところが,我が国の教育論は,
この教育可能性を過大評価する傾向が強い。
すなわち,教師の働きかけによって,
子どもの教育が
完全にコントロールできるかのような論を立てるのである。
この論の立て方からいくと,
子どもの教育がうまくいかないのは,
教師の働きかけのまずさによるということに
簡単に帰着してしまう。
確かに教師が原因で,
教育がうまくいかないことも多い。
しかし本当は,
子どもの教育をコントロールする教師の力には限界がある。
そして,そこに学校教育の限界がある。
このことを丁寧に見つめた上で,
教育を語るべきではないだろうか。