最近,デモシカ教師が少なくなった。
これが学校の活力を奪っているのではないか。
まず,デモシカ教師について考えてみよう。
デモとシカではちょっと違うのである。
まず,デモ教師は,
もともと学校や教師というものに対する
自分のなかでの価値付けが低い。
だから,学校の論理や教師至上主義を
盲信することがない。
なにを上から言われても,
「なにいってんだい,へっ」てなものである。
次に,シカ教師は,
能力は低かったかもしれないが,
教師にしかなれないという
本人の自覚のもとで,
自分なりのやり方で,
必死で教師であろうと努力して
教師である自分に逆に喜びを感じるように
なっている人も多い。
もともと教師にあこがれて教師になった者だけでなく,
デモやシカが混在した学校が,
多様な大人モデルを子どもたちに提供していたのである。
そして,
教育万歳,学校万歳の教師たちが
陥りがちな偏狭な教師意識に
風穴を開け続け,
本当の意味で学校を支えてきたのは,
これらデモシカ教師たちだったのではないか。
いまや時代は変わり,
デモシカ教師という言葉さえ
あまり聞かれなくなった。
今無気力に陥っている先生は,
デモシカ教師などではなく,
もともと,まともに教師になりたかった先生たちが
多いのではないか。
ともあれ,本当は,
生涯一教師を看板にしている先生や,
教師なんて仮の姿で
本当の俺はこんなんじゃないぜという先生や,
とにかく俺には教師しかないんだ,
ここをくびになったらいくとこないよという先生や
まあまあ人生こんなものよという先生や,
その他いろんな経験を持ち,
いろんな価値観の先生が混在しているのが
いちばんいい学校なのではないのだろうか。
これが学校の活力を奪っているのではないか。
まず,デモシカ教師について考えてみよう。
デモとシカではちょっと違うのである。
まず,デモ教師は,
もともと学校や教師というものに対する
自分のなかでの価値付けが低い。
だから,学校の論理や教師至上主義を
盲信することがない。
なにを上から言われても,
「なにいってんだい,へっ」てなものである。
次に,シカ教師は,
能力は低かったかもしれないが,
教師にしかなれないという
本人の自覚のもとで,
自分なりのやり方で,
必死で教師であろうと努力して
教師である自分に逆に喜びを感じるように
なっている人も多い。
もともと教師にあこがれて教師になった者だけでなく,
デモやシカが混在した学校が,
多様な大人モデルを子どもたちに提供していたのである。
そして,
教育万歳,学校万歳の教師たちが
陥りがちな偏狭な教師意識に
風穴を開け続け,
本当の意味で学校を支えてきたのは,
これらデモシカ教師たちだったのではないか。
いまや時代は変わり,
デモシカ教師という言葉さえ
あまり聞かれなくなった。
今無気力に陥っている先生は,
デモシカ教師などではなく,
もともと,まともに教師になりたかった先生たちが
多いのではないか。
ともあれ,本当は,
生涯一教師を看板にしている先生や,
教師なんて仮の姿で
本当の俺はこんなんじゃないぜという先生や,
とにかく俺には教師しかないんだ,
ここをくびになったらいくとこないよという先生や
まあまあ人生こんなものよという先生や,
その他いろんな経験を持ち,
いろんな価値観の先生が混在しているのが
いちばんいい学校なのではないのだろうか。
でも、昔のように何でも暴力で解決したり、人権にかかわることで子ども達を傷つけるような教師は減ってきたのでは?
それは、「でもしか」教師ではなく、本当に教師になりたくて教師になった、まず、第一に子どもを大切に思う教師が増えてきている証拠ではないだろうか?
親としては、自分がお腹を痛めて産んだ子どもが不必要にげんこつなどの暴力、子どもの心を深く傷つける言葉の暴力を行う教師が減った事は、大変よいことだと思うが。(もちろん、悪い行いをした時は厳しく叱ってほしいが)
例でいうと
教室に行儀が悪いAさんがいた。教師は行儀が悪い全てのことをA行儀と名付け、他のお子さんが行儀が悪いと「A行儀をするな」とあたり前のように指導する。
みたいな感じ。わかりますか?
学校現場で、私がみた崩壊したクラスは、全て50代の方ばかりでしたが・・・・。
すばらしい方も50代ですがね。
今の学校現場の先生は、みなさん、がんばっていると感じますが、そうではないのですか?
しかし、過去と比べると「いわゆる教員の資質能力」が低下しているとは、感じませんが。
それとも、「いわゆる教師の資質能力」は危機的なぐらい低下しているのでしょうか?
でもどうして,問題が教員のせいではないことばかり前提にしたがるのでしょう?
「自分は正しい」「教員はまちがっていない」なんて,政治家とそっくりなところがありますが,政治家はすぐに替えられるけど,教員が帰られないのがやっかいなんですよ。
一部の教師の言動が子どもや親を傷つけたり、授業とはいいがたい授業を行い、それが、クローズアップされているように感じますが。今も昔も、子どものことを大切に思っている教員に関していえば「いわゆる教師の資質能力」が劇的に低下しているとは感じません。
ただ、問題なのは、そういう一部の教師が野放し(言葉が悪くすみません)教師同士で高め合えていなかったという状況だと考えますが。いわば、学級王国で自分のクラスさえよければいいみたいな状況がありましたよね?
今の学校現場を見ていると8割から9割の先生方は切磋琢磨し、子どものことを大切にしながらがんばっていますが、残りの1、2割を多いと感じるか、少ないと感じるかは人それぞれでしょうが、存在する限りほっておくことはできないでしょう。
教師の存在価値は「個人の内面」や「人格」で計られるべきではなく、学校内でどのような「役割」を果たしているかによってはかるべきではないのか。
という問題提議として読みました。個々の教師が各々の技術・能力・人格に応じた「役割」を発揮してこそ学校は活性化しうるのではないかと。
「教師こそ自分の天職と考え、なによりも子供を第一に考えるすばらしい先生」というような「あるべき先生像」を教員という一個人に投影することは、教員に教師という「役割」を演じさせるのではなく、教師という「人格」を演じることを強要していて、現役の教師や教師志望者たちの思考や言動を拘束し息苦しいものにさせてしまうのではないかと私は思います。
「デモシカ教師」って教師であることが自分の「役割」であると割り切って、その枠の中で自分の能力を学校経営に提供する極めて「大人」な態度の教師ですよね。