学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校教育の限界

2005-09-30 | 教育
学校教育は,集団教育という性質上,
そこで行われる教育活動には
自ずから限界がある。

たとえば,以下にあげることは不可能である。

1 すべての生徒に対して,個に応じた教育を施すこと
2 すべての生徒が完全にわかる授業を展開すること
3 すべての生徒に充実感をもたせること
4 すべての生徒の行動を予見し,トラブルを事前に回避すること

これらの事柄が学校教育に期待されることが多いが,
もともと学校にはこれらを可能にする機能はない。

もしも,これらのことが可能であると標榜する学校があるとしたら,
それは,誇大広告かもしくは妄想である。


学校が可能なことは,

1 すべての生徒に対して,平等な学習機会を与えること
2 時間割を定めて授業を計画し,実施すること
3 教育的見地から諸活動を計画し,実施すること
4 トラブル発生後,可能な限り対応すること

などである。

例えて言えば,
学校は,一定のダイヤに従って,
線路のうえを走っている列車のようなものであるから,
線路のない方向へ行ったりはできないし,
乗り遅れた者をいつまでも待ったりはできないのである。

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15 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
TBしました (ほり)
2006-09-02 13:03:12
こんにちは。

学校教育がなぜ集団教育なのか、或いは、学校には個に応じた教育機能がない根拠を示してみました。5000字以上でやたら長いですが。。(笑)

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Unknown (madographos)
2006-09-02 19:12:02
>ほりさま。コメントありがとうございます。是非訪問させていただきます。
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質問です。 (すみません。)
2010-04-28 18:15:19
低学年支援をしています。
そこで、疑問点が。。。
一年生の担任のすべてが初めて一年生をもつ方達ばかり。どんなに年配のかたでもやはり初めてではわからないことだらけですよね。一年生のひらがな指導。一般的には「つ/く/し」からですよね。でも、なぜか「おはよう」「いちねんせい」から。もちろん、一年生、なかなか上手に書けません。「つ/く/し」から指導すれば一年生にとって負担が少ないのに。。。と思いながら支援教諭という立場であるがゆえに、担任の方に言う事が出来ません。授業には口だしするな。ということなんですって。わかっていながら、言えない。分かっているものが近くにいるのに、支援は授業に対して口だししたら、担任が授業がやりにくい。でも、何を一番に考えるべきなのか??です。子どもがよりよく学ぶ事と担任が授業がやりにくい=担任のプライドが傷つくこととどちらが大切なのでしょうか?なんか、教員の世界って、プライドのかけどころが?ですね。なんか、幼稚園、保育園の先生達ってもっと安い給料でもっと、もっと勉強されているのに。。教員は高い給料をもらっているんですから、もっと頑張ってほしいですわ。
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Unknown (madographos)
2010-04-28 22:46:33
>すみません。様。コメントありがとうございます。担任の指導方針に疑問をおもちであれば,児童のいないところで担任にお尋ねになってみてはいかがですか。担任の先生にもそのような指導方針をおとりになる理由があるのかもしれません。ただし,支援教諭は,授業の責任者ではありません。授業の責任者は担任です。その意味では,支援に徹するべきであろうと思います。
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Unknown (すみません。)
2010-04-29 10:13:39
早速のコメントありがとうございます。
支援に徹することにします。

ただ、自分の子どもがそのような担任に当たった場合は、親として「はずれだったな」と諦めざるを得ない、今の学校現場の現状に限界を感じる今日このごろです・・・.
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Unknown (madographos)
2010-04-29 10:36:38
>すみません。様。コメントありがとうございます。おっしゃるように,親は担任を選べません。当然あたりはずれがあるでしょう。しかし,そのはずれを回避するためには,そのはずれの先生をはずれでないように親がもりたてていくしかないのです。もしも,「はずれ」を「学校現場の現状の限界」と捉え,その限界を好ましくないものとするのであれば,現在の数十倍の税金を学校に投入していただかなければならないでしょうね。施設にしても,人材にしても,かなり無理してやりくりしているのですから。
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Unknown (すみません。)
2010-04-29 22:17:33
早々のコメントありがとうございます。
確かに、税金と投入したらいいかもしれませんが、無理ですね。と、同時に担任を親がもりたてることも無理・・・.親が「はずれ」と感じる教師は。。。「子どものために努力できない方」かなと思います。授業がうまくいかないこと、、当然あります。でも、授業参観を見れば、その先生がその一時間の授業のためにどれだけ用意して下さっているかわかります。それが伝わってこない方を、親がもりたてるなんて不可能ですよね?親はやはり、諦めて「今から我が子が長い人生で出会う人たちの1人として受け止め、こんな先生(人)もいるね、人間っていろいろだね」とそれも人生という勉強の一つと考えていくしかないですね?結局、子どもの教育は親の責任ですものね。
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Unknown (madographos)
2010-05-01 09:15:41
>すみません。様。コメント,たびたびありがとうございます。教師を「はずれ」と言ってしまう精神性にも問題はありませんか? 本当に問題のある教師であれば更迭すべきでしょうし,そうでないならば,支えていくしかないのでは?
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Unknown (すみません。)
2010-05-03 07:40:45
「はずれ」という言葉は確かによくありませんでしたね。もうしわけありません。ただ、やる気があり、教材、指導に関して常に謙虚にそして、向上心、子どものためにと教師としてのプロ意識を持たれている方、反面、教員という立場や名誉、保障された待遇にあぐらをかき、けして、教材研究や授業の技量をあげることをおろそかにしている教師がいるのは現実です。そういった教師のことを「はずれ」という言葉で言ってしまいました。やる気があっても、その人の経験が少なくてうまくいかない教師は支えようと思います。しかし、その「やる気」が感じられない教師(問題がある教師とはちょっと違います。問題がある教師とは「法を犯す方ですね」)を支えるとは具体的にはどういうことか?
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Unknown (mdaographos)
2010-05-03 09:04:00
>すみません。様。「やる気」が感じられない教師に,「やる気」が感じられないと言ってみてはいかがですか。
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