学校教育は,集団教育という性質上,
そこで行われる教育活動には
自ずから限界がある。
たとえば,以下にあげることは不可能である。
1 すべての生徒に対して,個に応じた教育を施すこと
2 すべての生徒が完全にわかる授業を展開すること
3 すべての生徒に充実感をもたせること
4 すべての生徒の行動を予見し,トラブルを事前に回避すること
これらの事柄が学校教育に期待されることが多いが,
もともと学校にはこれらを可能にする機能はない。
もしも,これらのことが可能であると標榜する学校があるとしたら,
それは,誇大広告かもしくは妄想である。
学校が可能なことは,
1 すべての生徒に対して,平等な学習機会を与えること
2 時間割を定めて授業を計画し,実施すること
3 教育的見地から諸活動を計画し,実施すること
4 トラブル発生後,可能な限り対応すること
などである。
例えて言えば,
学校は,一定のダイヤに従って,
線路のうえを走っている列車のようなものであるから,
線路のない方向へ行ったりはできないし,
乗り遅れた者をいつまでも待ったりはできないのである。
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そこで行われる教育活動には
自ずから限界がある。
たとえば,以下にあげることは不可能である。
1 すべての生徒に対して,個に応じた教育を施すこと
2 すべての生徒が完全にわかる授業を展開すること
3 すべての生徒に充実感をもたせること
4 すべての生徒の行動を予見し,トラブルを事前に回避すること
これらの事柄が学校教育に期待されることが多いが,
もともと学校にはこれらを可能にする機能はない。
もしも,これらのことが可能であると標榜する学校があるとしたら,
それは,誇大広告かもしくは妄想である。
学校が可能なことは,
1 すべての生徒に対して,平等な学習機会を与えること
2 時間割を定めて授業を計画し,実施すること
3 教育的見地から諸活動を計画し,実施すること
4 トラブル発生後,可能な限り対応すること
などである。
例えて言えば,
学校は,一定のダイヤに従って,
線路のうえを走っている列車のようなものであるから,
線路のない方向へ行ったりはできないし,
乗り遅れた者をいつまでも待ったりはできないのである。
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学校教育がなぜ集団教育なのか、或いは、学校には個に応じた教育機能がない根拠を示してみました。5000字以上でやたら長いですが。。(笑)
そこで、疑問点が。。。
一年生の担任のすべてが初めて一年生をもつ方達ばかり。どんなに年配のかたでもやはり初めてではわからないことだらけですよね。一年生のひらがな指導。一般的には「つ/く/し」からですよね。でも、なぜか「おはよう」「いちねんせい」から。もちろん、一年生、なかなか上手に書けません。「つ/く/し」から指導すれば一年生にとって負担が少ないのに。。。と思いながら支援教諭という立場であるがゆえに、担任の方に言う事が出来ません。授業には口だしするな。ということなんですって。わかっていながら、言えない。分かっているものが近くにいるのに、支援は授業に対して口だししたら、担任が授業がやりにくい。でも、何を一番に考えるべきなのか??です。子どもがよりよく学ぶ事と担任が授業がやりにくい=担任のプライドが傷つくこととどちらが大切なのでしょうか?なんか、教員の世界って、プライドのかけどころが?ですね。なんか、幼稚園、保育園の先生達ってもっと安い給料でもっと、もっと勉強されているのに。。教員は高い給料をもらっているんですから、もっと頑張ってほしいですわ。
支援に徹することにします。
ただ、自分の子どもがそのような担任に当たった場合は、親として「はずれだったな」と諦めざるを得ない、今の学校現場の現状に限界を感じる今日このごろです・・・.
確かに、税金と投入したらいいかもしれませんが、無理ですね。と、同時に担任を親がもりたてることも無理・・・.親が「はずれ」と感じる教師は。。。「子どものために努力できない方」かなと思います。授業がうまくいかないこと、、当然あります。でも、授業参観を見れば、その先生がその一時間の授業のためにどれだけ用意して下さっているかわかります。それが伝わってこない方を、親がもりたてるなんて不可能ですよね?親はやはり、諦めて「今から我が子が長い人生で出会う人たちの1人として受け止め、こんな先生(人)もいるね、人間っていろいろだね」とそれも人生という勉強の一つと考えていくしかないですね?結局、子どもの教育は親の責任ですものね。